2024年6月30日(日)
- shirasagichurch
- 2024年6月29日
- 読了時間: 7分
【聖霊降臨節第7主日】
礼拝説教「生きることの源」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書20:27-40
<讃美歌>
(21)26,4,51,129,65-1,28
この朝与えられています箇所には、サドカイ派という人々と主イエスとの対話が記されています。サドカイ派は、復活を信じていませんでした。彼らに対して主イエスは復活があることを語りかけられます。その語りかけは、私どもへの深い御言葉でもあります。ご一緒に主の御言葉を聞いて、養われていきましょう。
サドカイ派は、当時の決まりごとによって質問しました。復活があったら、こんなときはどうしようもないではないか、というへ理屈のような問いを持ち出しました。その質問は、彼らが復活をめぐる論争でよく使っていたと思われます。兄が死んだときに、当時の掟によって、そのすぐ下の弟が、その妻と結婚した、けれどもその弟も死に、その下の弟が結婚した、けれどもその弟も死んでしまい、と次々に兄の妻と結婚したときに、復活したら、誰の妻なのかというものです。
その質問に対して主イエスは、復活において、この世の関係がなおも続くわけではないことを語りかけられます。誰かの子、誰かの夫、連れ合いであったかもしれないが、「神の子だからである」(36)と言われるのです。復活においては、誰かの子、誰かの連れ合いであったことにまさって、神の子として生きることの幸いを語られたのです。そのことは、地上での歩みにおいても言えることではないでしょうか。神様が愛をもって私どもを導いてくださることは、すなわち私ども一人一人の主なる神との関係は神の子としての全き関係であって、すべての人間関係にまさるものなのです。むしろ、神様との全き関係が、私どもをつなぎ合わせ、生かしていくのではないでしょうか。
先週、日本キリスト教団の新任教師オリエンテーションにスタッフとして参加してきました。ある講演のなかで、こんな対話が紹介されました。それは、ある有名な牧師が講演されたときに、ある教会の信徒が質問したそうです。自分にはどうしても気が合わない教会員がいるんですが、どうしたらいいでしょうか、というものです。それに対してその牧師は、こう答えたそうです。「それが教会です。」
私どもは、気が合う者同士が集まって教会をつくったわけではなりません。それぞれが違う背景から、神様に「召し集められた」のです。気が合わない人がいて当然だということです。むしろ、主イエスが召して集めてくださらなければ、決して同席することはなかった私どもだということです。主は私どもがいっしょに召し集められ、共に礼拝生活を歩んでいることを喜んでくださっているのですから、私どもも、互いを喜ぶ必要があるのです。
復活について主イエス・キリストが語られたときに、当時のユダヤ人たちが誰しも知っている言葉を用いて話されました。人々が、主なる神を信じて呼ぶ、告白の言葉です。
それは、「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(37)と呼ぶ言葉です。人々は、日々に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉を耳にしていたでしょうし、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼びかけて祈っていたでしょう。しかし、その言葉の意味をよく分かっていなかったのです。
主イエスは彼らに、「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」と言われました。「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで」いること自体が、「死者が復活すること」を「示している」と言われるのです。私どもはすぐにその通りだとわかるでしょうか。さらに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(38)と言われました。
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」聖書が語っているのは、かつてアブラハムが信じた神、イサクがかつて信じた神、というのではないのです。アブラハムの神というのは、アブラハムもまた、神のよって生きている、と主イエスは復活の恵みと慰めを語りかけられました。
アブラハムもまた、神のよって生きていることは、ほかのどのような箇所からも分るでしょうか。
山上の変貌と呼ばれる個所を思い起こしました。(9:28-36)主イエスが山の上に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて登られたときに、その姿が輝き、衣が白くなりました。そのことを指して、山上の変貌と呼ばれるのですが、むしろ、主イエスのまことの姿が明らかになったとも言えます。主イエスが人となられたまことの神であることが明らかに示されたのです。そのときに、モーセとエリヤが現れました。
モーセは出エジプトの指導者、エリヤは預言者の代表と言う事ができます。しかし、彼らが過去からやって来たのではなくて、神の子として、神によって生きる者として、主イエスと共にいたということでしょう。
モーセは出エジプトという、地上のエジプトを出て、約束の地へと人々を導く指導者でした。しかし主イエス・キリストは、私どもを罪から救い出して、神の子としてくださる、まことのモーセ、救い主です。またエリヤが預言者として語ったことのすべては、神の救いのご計画の中で語られたものです。ですからエリヤは、やがて来るべき救い主、主イエス・キリストを指し示したのです。
そのエリヤもモーセも、山上で主イエスと共にいたということは、彼らも神の子として、神の聖なる命の中で生きていたということです。
さて、今日の個所が、主イエスが十字架におかかりになる受難週の出来事だということを忘れてしまっているかもしれません。主イエスは18章で、三度目にご自身と死と復活について語られました。(31-34)そしてエルサレムへと入ってこられた、そのあとのことが今日の個所です。
主イエスが十字架にかけられたことは、直接には、当時の指導者たちのねたみであったでしょう。あるいは、当時の指導者たちが積み上げたものを、神の御心に反するものとして崩していかれたことに、彼らが反発して、何とか無き者にしようとしたことが直接の原因でありました。しかし、深い神の御心の中では、主イエスの十字架は救いの道をひらくものであったのです。どういうことかと言いますと、十字架にかけられたことは、神に裁かれることです。しかし、罪なき神の独り子が十字架にかけられるべき理由はどこにもないのですが、私どもに代わって、すべての人に代わって神の裁きをその身に受けてくださったのです。そして、十字架の死は終わりではなく、死も主イエス・キリストを支配することはできなかったので、主は死から復活されて今も、救い主として救いへと招いてくださっています。ですから、主イエスを救い主として信じていくときに、主イエスの十字架の犠牲によって罪を赦されて救いをいただくことができるようになった、そのようにして、主イエスの十字架は救いの道をひらくものであったのです。
私どもは、救いの道を切りひらかれた主イエス・キリストを信じて祈ることができます。考えてみますと、十字架の死は、私どもの経験するいかなる苦難よりも悲惨なことではないでしょうか。まったく罪なきお方が、何らその苦しみを味わう理由を見いだせないにもかかわらず、十字架の死を選び取ってくださいました。そしておよそもっとも悲惨な死の経験の先に、復活をもたらされたのです。ですから、主はいかに苦悩に満ちた道の先にも、救いをもたらすことのできる方であることを、主の十字架と復活は示しているのではないでしょうか。ですから、私どもはいかなるときにも、主イエス・キリストを信じて見上げ、祈ることができるのです。この経験にも、この行き先が見えない道の先にも、暗いトンネルの先に、光の出口をもたらしてくださると信じて祈っていきましょう。
主イエス・キリストは今もなお語りかけてくださいます。
「すべての人は、神によって生きている」(38)
原語の順番通りに直訳しますと
「すべての人は生きる、神によって」
主の恵みがすべての人におよぶように、主は命をささげられました。すべての人が神によって生きる恵みを実現させるために、主は歩みぬかれ、今もなお生きて語りかけてくださいます。「すべての人は生きる、神によって」
私どもが一人一人は、主の恵みによって呼び集められ、召されてここに教会のからだの一部一部として生きています。主イエス・キリストが、私どもが生きる、命の源であることを信じていきましょう。

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