【聖霊降臨節第3主日】
礼拝説教「祈りの家となる」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書19:41-48
<讃美歌>
(21)26,1,352,492,65-1,28
主イエスが涙を流されています。
「エルサレムに近づき都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。』」(41・42)
そのとき周りにいた弟子たちはすぐに、主イエスの思いがわかったのでしょうか。おそらく、よく分からなかったと思われます。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」という言葉に心を動かされますが、主イエスは「平和への道」をどう見ておられたのでしょうか。戦争がないという意味だけではないと思います。私どもも、主イエスが涙を流されて示された道に、思いを深めていきましょう。
主イスがなぜ涙されたのか。ある神学者は、このときの主イエスの涙について記すなら、一冊の書物に十分なると言いました。ただ私自身、そのように膨大なことになるとはすぐには思えなかったのです。
しかし別の神学者が書いているものを読んだとき、少し分かる気がしました。それは、主イエスが「都が見えたとき」とある、主イエスが見られたものは、私どもには見えないものをも見ておられるというのです。
主イエスが見られたものは、単にそこにある都だけではないのです。エルサレムの都に関わる、旧約からのすべての歴史、そして現在の都の姿、それは信仰の姿であり、さらには将来を見抜いて、涙されたのです。
私どもは主イエスが見ておられるようには見ないで、ただ自分の見ているところで判断し、自らを正しいところにおいて人を裁いてしまうことがあります。十分に見えていないことが分からないところに、私どもの罪があるのです。
主イエスが「その都のために泣いて」とあるのは、声を出して泣かれたという意味で、ある神学者は号泣されたと訳しているのです。それほどに悲しまれたのは、主イエスが見ておられたものがあるからです。
まず将来のことでは、エルサレムは70年に陥落し、国が滅んでしまうのですが、そこには悲惨な出来事がありました。そのことが預言されています。「お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(44)と。
ルカによる福音書が記されたのは、いつごろか議論がありますが、おそらく70年以降、80年頃ではないかと言われます。そうであるなら、ルカもまた、荒れた都と悲しい戦争の出来事を思いながら、主イエスの思いに重ねるように、涙ながらに福音書を書いたのではないか。
主イエスが語られた「平和への道」は、戦争がないことを含んでいますがそのことに留まらない、神の平和(シャローム)の道です。それは救いの道であり、主イエスがもたらしてくださるものです。
この箇所は、十字架へと向かわれる受難週の始まりの時です。
救い主であることが分からずに「祭司長、律法学者、民の指導者たちは」(47)主イエスを殺そうと計画していったのです。そして十字架に殺してしまったのですが、そこには、彼らには見えていなかった、神の知恵による救いの道が隠されていました。
ですから「平和への道」、主イエスの道は、人々の目には隠されていて、主なる神にしか見えていなかったのです。
十字架につけた者たちのために、私どものために、主は代わって十字架の上にさばかれ、救いの道、平和の道を切りひらいてくださいました。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(24:34)と主イエスは十字架の上で、執りなしてくださった。そのとりなしの祈りは、すでにこの箇所の主イエスの思いの中にも響いていると信じることができるのです。主イエスの涙とつながっているのです。
神殿での現在の姿を見て、将来おとずれるであろうことを見抜いて主イエスは涙されたのですが、愛をもって「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」(46)と言われました。
主イエスは神殿の礼拝生活の様子をごらんになって、礼拝の心、祈りが失われていたことを悲しまれた。しかし弟子たちも含めて、人々は気づいていなかったのです。主イエス・キリストが見ておられるほどには、問題を感じていなかった。私どもを主イエスがご覧になったなら、礼拝生活の様子をごらんになって、礼拝の心、祈りが失われていないことを確認して喜んでくださるでしょうか。もちろん、礼拝の心、祈りが失われていないことを確認して喜んでくださるでしょうが、決して十分ではないことを告白して、礼拝の心、祈りを満たしていただく必要があるのではないでしょうか。
私どもは、その祈りの心の源、源流が主イエスにあることを忘れてはならないのです。復活された主イエスが、天において、なおも祈っておられる、その祈りに連なるのが礼拝です。
そのような祝福された礼拝につながる出来事が、すでにこの箇所にあります。それは「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」(48)ことです。人々が聞き入っていたそのことに、主の働きがあるのです。
毎週、私どもが主日の礼拝を献げるために集められることは、主の尊い働きによります。主イエスは私どもを見ていてくださる。すべてをご存じである主が、主の道、平和の道を御言葉をもって示し続けてくださることに、さらに聞き入っていきましょう。
教会とは、主イエスが愛をもって「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」語りかけられたように、祈りの家であります。礼拝の心、祈りを満たしてくださる主が、私どもを導いてくださることを信じて、祈りの家として生きていきましょう。
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