【聖霊降臨節第6主日】
礼拝説教「神に返しなさい」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書20:20-26
<讃美歌>
(21)26,9,132,513,65-1,28
教会の暦では、聖霊降臨節の礼拝を共に献げています。聖霊降臨、ペンテコステの恵みをおぼえながら礼拝を献げています。ペンテコステというのは、キリスト教会の誕生日と言われます。神の霊、聖霊が私どものところに来てくださり、教会が生まれました。それは、目には見えないけれども、主なる神が私どもと共に生きてくださるようになったということです。
聖霊の働きは、神様の働きですからとても知り尽くすことはできませんが、ひとつには、私どもに主イエスを救い主として信じる信仰を与えてくださることです。主イエスを信じて生きているなら、すでにそこに聖霊のお働きがあります。神の御言葉と共に聖霊が働かれて、私どもに語りかけ、主を信じて従う信仰に生かしてくださるのです。礼拝で御言葉を共に聞き、そこに悔い改めが与えられ、御言葉の恵みに生かされる、そこに聖霊の働きがあります。そのような聖霊の働き、御言葉に伴う聖霊の働きは、別な言い方をすれば、私どもを主の聖なる命につなげてくださるものです。もっと言うなら、私どもを神のものとしてくださるということです。
「神のもの」という言葉が、この朝与えられている箇所にもあります。先ほど朗読したルカによる福音書20章に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25)と主イエスが語られています。とても有名な言葉で、一般にも引用されることがあります。しかしこの箇所から切り離されて一人歩きするので、誤解されることもあるのです。
ひとつの大きな誤解は、皇帝の領域と神の領域が別々にあって区別されるというものです。決して主イエスはそのようなことを話されたわけではない、すべては神のみ手の内にあるのです。礼拝堂は神の領域だけれども、一歩出たら、それはこの世の領域で神のみ手の内にないなどということでは決してないのです。
ペンテコステは、教会が神のものとされて教会が生み出されました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」この主の御言葉を、そもそも、主イエスはどのような場面で「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られたのでしょうか。
先ほど朗読したときに、おわかりになったと思います。
主イエスを、ワナにかけようとする人たちがいた。
20節「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
総督というのは、ローマ帝国から遣わされて、ユダヤ人を治めていた支配者です。その総督にイエスを引き渡して裁いてもらおうとした。命を奪って殺すために、訴える口実を探していたのです。
近づいた人たちは、「正しい人を装う回し者」(20)であった、偽善者ということです。
偽善という言葉は、当時、演劇で仮面をかぶって演じた「仮面」からきているそうです。 表面的な、仮面をかぶったような正しさが、主イエスに通用するはずもなかった。しかし彼らは、用意周到に準備して質問しました。
「真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」(21)と言って質問しました。「真理に基づいて」答えるならこれはどうかと問うたのです。
「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」(22)
どんな答えを彼らは予想していたのでしょうか。おそらく彼らは「真理に基づいて神の道」に従おうとするなら、皇帝に税金を納めることは、律法に適っていないとイエスは答えざるを得ないと思っていたのではないか。もし主イエスが、皇帝に税金を納めるのは、神の民にふさわしくないと答えれば、彼らはそれをローマ帝国への明らかな反逆として訴えることができたのです。
逆に、もし律法に適っていると言えば、民衆がイエスから離れていくことを期待したでしょう。ローマ帝国に支配されていることは神の御心ではないと信じていた民衆が、イエスから離れ去っていくことを願ったのです。
どちらに答えても、イエスを追い詰めることができる質問でした。この質問を思いついたときに、心躍るような思いがあったかもしれない。わくわくしながら彼らは質問したのではないか。
主イエスは、彼らの悪巧みを見抜いておられました。
そして「デナリオン銀貨を見せなさい。」(24)と言われました。
質問した者たちは、皇帝に税を納めるべきか、真剣に悩んでいたわけではないのです。デナリオン銀貨とありますが、1デナリオンは、一日働いてもらう賃金に相当すると言われます。ユダヤ人も普段、デナリオン銀貨を使っていたのです。ですから、「見せなさい」と言われて、すぐに自分の財布から出して見せることができました。そのローマの貨幣を使い、税を納め、ローマの支配のもとで生きていた。そのローマの支配を利用して、イエスを訴えて殺そうともしていた。
税をローマに納めることは律法に適っているかどうかというのは、見せかけの正しさを装う質問でしかなかった。そのことを主イエスは明らかにされたのです。
「そこにはだれの肖像と銘があるか」(24)彼らが「皇帝のものです」と言うと、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。
皇帝のもとに生きていることも、神にゆるされていることであった。民衆は、ローマの支配から武力を使ってでも解放して独立を勝ち取ってくれるようなメシアを期待していましたが、主イエス・キリストは、そのような期待を断ち切られたのです。
「皇帝のものは皇帝に」という言葉を聞いて、ある方は、パウロがローマ書で語った言葉を思い起こされるかも知れない。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(13:1)ローマ書は、すでにルカ福音書に先立って書かれていました、パウロと親しくしていたルカも知っていたでしょう。
主イエスは「皇帝のものは皇帝に返しなさい」で終わられなかった。質問者が問うた以上のことを、主は語りかけられました。それは、「神のものは神に返しなさい」ということです。
明らかに、主イエスはここで、農夫のたとえを受けて語られています。
そのたとえは、農夫たちが、畑を主人から借りていたのですが、それを自分のものにしようとして、収穫の一部を主人に納めるため、取りに来た僕たちを痛めつけた。最後には愛する息子を殺してしまうというものです。
当時の指導者たちが神のものを自分のものであるかのようにして、主イエスを殺そうとしていたことが、たとえの背景にはあるのです。
しかし「神のものは神に返しなさい」というのは、当時の指導者だけに語られた言葉ではないのです。教会は、聖霊の働きのもとで、私どもへの神の言葉として聞きとってきたのです。
私どもの教会生活、信仰生活の中に、これは神のものではない、ただひたすら自分のものだと言えるものがあるでしょうか。
ここから先は、私の領域であって、神様であっても指一本触れさせない、というような思いに生きてはならないのです。私どもが主の名によって洗礼を受け、救われるということは、恵みによって私どもが神のものとされることです。私どものすべてを赦して受け入れてくださっているのです。その主の赦しを信じて、どうか御赦しください、と祈る恵みに生きることができるのです。むしろ自分自身であっても、まともに見続けられないようなところにさえ、主は立ってくださり、恵みをもって導いてくださいます。
「神のものは神に返しなさい」とは、私どもから何かを取ろうとするためではありません。私どもを神のものとして、すべてにおいて働きかけてくださるため、そのような主の目には見えない働きを信じて、神に返してゆだねていく喜びに生かすためです。
聖霊の働きによって、神様からすべてを与えられていることを信じる信仰の喜びに生かされたいと願います。主よ、これからもあなたの僕として、神のものとしてとらえてください、と祈りつつ生きていきましょう。
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