top of page
shirasagichurch

2024年6月16日(日)

聖霊降臨節第5主日

 

礼拝説教「生きる土台」            


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書20:9-19


<讃美歌>

(21)26,11,54,454,65-1,28

 

 主イエスは、ぶどう園とそのぶどう園で働く農夫のたとえを話されました。

 主イエスのたとえにおいて、ぶどう園の主人は、その農園を農夫たちに貸していますが、その貸し方は、彼らに自由を与えて任せています。主人は、農園の中にいつもいて、農夫たちに、あなたがたは雇われ人だといつも言い聞かせて窮屈な思いを抱かせているのではないのです。その任せ方は、彼らに与えているに等しいほどの任せ方ではないでしょうか。そのような主人の心の広さに気づかないで、自らのものと思い込むような姿、あるいは自分たちのものにしようとする農夫たちの姿は、あまりにも愚かに思えてしまいます。

 しかし立ち止まって考えるべきは、そのような愚かさは、私どもに関係のない話でしょうか。ルカはこのたとえを記す時に、そこに自分たちの姿があり、主イエス・キリストが、自分たちの教会にも語りかけられていると信じて記したはずです。私どもの姿、その愚かさとは、どのようなものでしょうか。ご一緒に、主イエスの語りかけに思いを深めていきましょう。

 

 農夫たちは、たとえの中でどうすることを求められていたでしょうか。収穫の一部を主人に納めさえすればそれでよかったはずです。そうすれば主人と共に喜ぶことができたのです。しかし、10節にあるように、僕たちを次々に「何も持たせないで」送り返します。しかもその返し方は、「袋だたきにして」(10節)「袋だたきにし、侮辱して」(11節)「傷を負わせてほうり出した」(12節)とあるように、後戻りできないような状況になっていきます。さらに最後には、主人が「わたしの愛する息子」(13節)と呼ぶ存在をさえ、退けることをしてしまったばかりか、「外にほうり出して殺してしまった」(15節)のです。実に悲しいたとえです。たとえですから、主イエスはご自身の思い、神の思いをこのたとえの中に語りかけられています。何を聞き取るべきでしょうか。

 

 私どもが主人の立場であるなら、一人目の僕が袋だたきにされた時点で、話は終わってしまうのではないでしょうか。二人目の僕を遣わすなど考えられないことです。このたとえの主人は、あり得ない心の広さです。それは神様の心の広さをたとえているのです。たとえのしもべたちが主人の思いに気づかないように、神様が心広く、寛容な神の御心に気づかない罪深さを、私どもも持っているのではないでしょうか。

 

 たとえの中で、主人の心の広さ、愛の深さとは、反比例するように、農夫たちの身勝手さ、罪の深さは際立っていきます。どんどん度を越えていって、最後には息子さえ殺してしまうのです。しかし、キリストの救いがないところでは、たとえが示す身勝手さ、罪の深さは、留まるところを知らないのであり、そこには滅びの姿が表されているのではないでしょうか。

 しかし私どもにはどうにもならない滅びをも、主イエスは打ち砕き、また押しつぶして終わらせることができるお方なのです。

 「そんなことがあってはなりません。」(16節)という叫びは、たとえを聞いていた民衆と弟子たちの叫びです。「そんなこと」とはたとえ全体を受けていますが、特に、愛する息子を殺したこと、そして、その報いとして、主人が「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(16節)ことです。原文では「そんなことがあってはなりません。」は、「メー、ゲノイト」という言葉で、「あってはならない」と直訳することができます。

 

 主イエスは、たとえを話されながら、そのたとえの中に、ご自身を語り出しておられます。明らかに、愛する息子が殺されることは、主イエスの十字架の死を語っておられます。主人は、愛する独り子を世に遣わした父なる神のことです。

 主イエスは、ご自身を「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(17)と語られ、さらに「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(18)と言われました。

 

 このことは、石を捨てることへの神の復讐のように捉えられるべきではないのです。むしろ福音が語られています。石を捨てるその者を滅びに至らせる滅びがまた「砕かれ」「押しつぶされてこなごなに」されるのです。

 聞く者たちを「見つめて言われた」主イエスは、たとえの農夫たちと言うべき人々が、滅びることを願ってはおられないのです。十字架に捨てられる石となり、隅の親石となって、私どもの救いの石となることを覚悟して、主イエスはこのたとえを語っておられるのです。

 

 そうであるなら、たとえの中で主人が「農夫たちを殺し」てしまうことは、主イエスこそが「そんなことがあってはなりません。」と願って、自ら救いの道を切り拓くためにエルサレムへと進み来られて、その救いが成し遂げられる都に立っておられるということではないでしょうか。しかしそれでもなお、主イエスが捨てられて十字架におかかりになることは本来「あってはならない」ことなのです。

 

 主イエスが私どもの救いの石、親石という土台の石となってくださったことは、あり得ない神の愛によることを忘れずに生きていきましょう。主イエスが教会の土台の石となってくださったことは、私どもの生きる土台が主イエス・キリストにあるということです。生きていく中で、いろんなことが起こりますが、思いがけないことが起こるときにも、共に主イエスを生きる土台として、祈りつつ生きていきましょう。



閲覧数:36回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page