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2024年5月5日(日)

復活節第6主日

 

礼拝説教「救いが訪れた」               


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書 19:1-10


<讃美歌>

(21)25,20,55,451,64,28


 礼拝ではルカによる福音書から、少しずつ主の御言葉を共に聞いています。この朝は、ザアカイという人が主イエスから救いを受ける話です。ザアカイの物語は、ルカによる福音書にしか記されていません。ザアカイの話は、CS(教会学校)の礼拝で子どもの頃よく聞いた覚えがありますが、新約聖書の中でもっともよく知られてきたもののひとつ、キリスト教会でとても愛されてきた話です。

 

 ザアカイは、主イエスがエリコの町に来られたことを知りました。そして「イエスがどんな人か見ようと」(3)出かけていくのですが、「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」しかし諦めずに彼は走って先回りをして、いちじく桑の木に登って待っていたというのです。

 ザアカイは、徴税人の頭であったとありますから(1)、大きなエリコの町の税務署長のような存在です。その町の有名人です。税務署長さんに会うことはあまりないかもしれませんが、そんな人が、会いたい人を見るために、あっさり木に登るというのは、普通は考えられないことで、親しみを感じます。ある有名な牧師はザアカイのことを「おっちょこちょい」だと語りました。その牧師は私には重厚な説教者というイメージですので、その先生をして「おっちょこちょい」だと語らせるほどに、親しみをお感じになったのかと思いました。

 ザアカイのことを、ルカは「金持ちであった」(1)とも伝えています。おそらく徴税人の頭は、みな金持ちだったと思われます。当時、ローマに納める税を取り立てる権利を買い取っていたそうです。そうしますと、あとは権利をもっている徴税人の頭が、自分の裁量で取り立てることができました。常識的な額を超えて税を取ることも可能で、5倍、10倍というようなことが横行していたとも言われます。税をかけなくていいところで税をかけてだまし取るというようなこともあったと思われます。そんなことであったので、徴税人、ましてその頭は人々に忌み嫌われていました。ユダヤ人でありながら、ローマの国に仕えていたので、裏切り者のように扱われたようです。ザアカイが群衆に遮られたのは、単に背が低かっただけではなかったのではないか。

 この当時、人々から、神に見捨てられた存在と見なされていた人たちの中に、徴税人もいたのです。ですから、主イエスがザアカイのところに行かれたときに、人々は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7)と皆つぶやいたのです。食事を共にするというのは、相手を受け入れているしるしで、その仲間と見なされました。ですから主イエスは、ザアカイの友となられました。神に見捨てられていると人々が見なしても、主イエスは見捨ててはおられなかったのです。

 

 「ザアカイ」という名前には意味があります。「清い人」という意味です。とてもいい名前です。おそらく名前とは全く違う生き方をしていると、自分も思い、まわりも「ザアカイ(清い人)」とは呼ばずに、「罪深い男」とさげすむように陰で呼んでいたのではないか。 

 さて、走って先回りをしたザアカイですが、思いもよらないことが起こります。それは、木の下で、主イエスが立ち止まられたことです。しかも自分を見上げて名前を呼んでくださった。「ザアカイ」(5)と。初対面の主イエスからです。さらに、主は言われました。

「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 ザアカイは、何が起こっているかすぐには理解できなかったでしょう。しかし彼は、主の御言葉に突き動かされるようにして「急いで降りて来て、喜んで」(6)主を迎え入れたのです。

 主の言葉、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」というのは、直訳しますと「今日は、あなたの家に泊まらねばならない。」という言葉です。主の御心がはっきりと伝えられているのです。「あなたの家に泊まることにしている。」ということです。たまたま、エリコの町でザアカイを見つけられたのではなく、ザアカイに会うために、彼を受け入れて救いを与えるために主イエスは来られました。

 主は「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10)と言われました。主イエスは「失われたもの」と言うべきザアカイを主は捜し出して、救ってくださったのです。

 主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」(9)と喜びをもって語りかけられました。主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」「この家」と言われました。ザアカイが結婚していたかは分かりませんが、少なくとも家族を指して「この家」と言われた。救いはひとりの個人にとどまらない。また「この家」とは、エリコの町にある「この家」でもあります。

 ザアカイは、自分から「財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8)と主に言いました。それを主に約束したから救いが訪れたのではないのです。主から与えられた救いに応答して、自分から喜んでそうしました。

 主イエスがエリコに来られた後のことを考えました。このあと、ザアカイはどうしたのかということです。おそらくザアカイは、町をめぐったでしょう。人々を訪ね歩いて、お金を返したり、自分の財産を分けていった。エリコの町で全く別人のように救いを受けたザアカイが、主イエスを伝えながら歩く姿を想像します。

 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と皆がつぶやいた、そのつぶやきは驚きに変わったはずです。あるいは、主をたたえる賛美に変わった。直前の個所で目の見えない人が癒されて「神をほめたたえながら、イエスに従った」(18:43)とあります。そして「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」その賛美は、主イエスと出会ったザアカイとそのまわりにも響いているのです。ザアカイも「神をほめたたえながら、イエスに従った。」エリコの町の人々も「神を賛美した。」はずです。

 

 ザアカイは、手元にある財産というべきものはなくなってしまったのではないかと言われます。もしそうであっても、ザアカイには、失うことのない救いが与えられました。自分のような者が罪赦され、受け入れられた喜びがありました。消えない灯火(ともしび)のような喜びです。

 直前の18章で、主イエスは三度目に、十字架の苦難と復活のことを弟子たちに話されました。それに続く、目の見えない人が見えるようになった出来事、そしてザアカイの救いが記されています。その意味では、ザアカイのためにも、主は十字架にその審きを身に受ける深い思いを持って「救いがこの家に来た」と語られたはずです。あるいは、ザアカイに、主のまなざしが与えられて、はっきりと神を見上げて生きるようになったことが記されているとも言えます。

 このあと、ザアカイはどうなったのでしょうか。よく言われるのは、「ザアカイ」という名がここにあるのは、初代教会の指導者となったのだろうということです。そうではないかと思います。

 伝説もありまして、12弟子の最後の弟子が、主の復活のあと選ばれたのですが、マティアは、ザアカイだというのです。あるいは、ペトロが、カイザリアの教会の監督に任命したという言い伝えもあります。

 いずれにしても、ザアカイは主の弟子となったのです。「神をほめたたえながら、イエスに従った」のです。私どもも、主の弟子となって、主なる神をほめたたえながら生涯主に従ってまいりましょう。

 

 先程、18章とのつながりを見ました。もうひとつ大切なつながりがあります。それは、18章に、ある金持ちの議員の話があって、富める青年の話として有名です。18章ではそのときには、ある金持ちは主の弟子となることはできませんでした。救いを受けて、神の国(神の恵みのご支配のもとに生きること)に入ることはできなかった。そして主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る報がまだ易しい。」(25)と言われ、人々は「それでは、だれが救われるだろうか」(26)と問うたのです。その問いへの答えが、ザアカイの救いであるのです。ザアカイがすべてを失うほどに人に施し償ったのも「人間にはできないことも、神にはできる。」(27)ことでありました。主が彼の内に働いてくださったのであって、差し出したものによって救いを得たのでは決してないのです。

 主イエスは言われました。「人間にはできないことも、神にはできる。」ザアカイが救いを受けたのは、「人間にはできないことも、神にはできる。」、そのことの実現なのです。

 この箇所には、私どもが生涯主の弟子として生きていくことへの招きがあります。主は招きつつ「人間にはできないことも、神にはできる。」と語りかけてくださる。洗礼を受けて主の弟子となっていくことも、自分の決心だけでは踏み出せないものです。しかし主は愛をもって「人間にはできないことも、神にはできる。」と語りかけてくださいます。 

 ザアカイは、主イエスを見おろすような、木の上で主の招きを受けました。私どもにもそれぞれのきっかけがあるでしょう。しかし、ザアカイはやがて生涯主を見上げて生きる者とされました。自分が主イエスのところに来ようとすることにはるかに先だって、主は知っていてくださったことを、確かに知るようになったのです。

 主は私どものことを知っていてくださる。ひとりひとりの名前を呼んでくださるのです。

 

 おそらくザアカイは、その生涯において、主を信じて信仰生活を貫くことは、人の決意や熱心だけでは続かないと痛感したでしょう。私どもも、教会のこれからの歩みにおいても、それぞれの生涯においても、主を信じて信仰生活を貫くことは、人には為し得ないことを知る必要があります。しかし主イエスは言われました。「人間にはできないことも、神にはできる。」主は私どもの知りえないところにおいても私どもの内に働き、私どもひとりひとりを用いてくださるのです。

 主は「ザアカイ」と名前を呼ばれ、「今日、救いがこの家を訪れた」と喜びをもって祝福されました。その祝福は、ザアカイの生涯を貫き、教会の歩みの中で受け継がれて今もなお続いているのです。私どもの教会に、救いがすでに訪れている。その喜びは、私どもだけにとどまるものではないのです。どうか、主の喜びに共に連なって伝えていきましょう。


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