【聖霊降臨節第2主日】
礼拝説教「祝福があるように」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書19:28-40
<讃美歌>
(21)25,8,342,580,64,28
私どもは毎週礼拝を心を込めて献げています。ただ、今日の礼拝を、ひと月後、あるいは半年後にどれくらいおぼえているでしょうか。しかし主なる神は、私どもの礼拝を、いつまでも心に留めていてくださるのです。主なる神は、とこしえに私どものことをおぼえていてくださいます。そのことはこの朝献げている礼拝についても言うことができる恵みです。
主は、ただ記憶していてくださるというのではなく、喜んで受け入れていてくださいます。主の御言葉によって示されて、私どもが応答して祈った祈りを、献げた賛美を、いつまでも忘れることなく御心に留めていてくださるのです。
与えられています箇所にも、主イエスへの賛美があります。
37節「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」
「あらゆる奇跡」と訳されていますが、「奇跡」という言葉は、元々は「力ある働き」という意味です。神の力があらわれた出来事、主の御業ということです。
弟子たちは主の御業を想い起こしながら、主をたたえて、賛美しました。
「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。」これは、詩編118編26節の言葉が用いられています。
心から主をたたえている弟子たちですが、このとき弟子たちはどれほどに主イエスのことが分かっていたのだろうか。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」(28)とあります。都の「エルサレム」で何が起こったのでしょうか。この週のうちに、ペトロを始め弟子たちは主イエスの十字架を目前に逃げ去ってしまうのです。しかしそのような弟子たちの姿を、ルカは自分たちに重ねています。つたない自分たちも、主に支えられ続けていると信じて記しているのです。
私どももそうではないでしょうか。主の恵みによる働きによって、教会の今があるのです。「あらゆる主の力ある働き」奇跡がなければ、教会は続いていかない、そのことが、弟子たちの賛美の中にも歌われています。
「天には平和、
いと高きところには栄光」(38)
どこかで聞き覚えがあると思われるかも知れません。主イエスが誕生なさったとき、羊飼いたちがその知らせを受け、天使たちが賛美しました。
「いと高きところには栄光、神にあれ
地には平和、御心に適う人にあれ。」(2:14)
主イエスの誕生のときには、「地には平和」ですが、ここでは「天には平和」です。
天には主の平和(平安)が満ちているので、願う必要はないと思われるでしょうか。
ここでは天に平和があるように願っているというよりも、天に主の平和(シャローム)が満ちていることを賛美して歌っています。平和は、元々は旧約聖書のシャロームという言葉です。シャロームとは、私どものつたなさ、乏しさのすべてに主が働きかけて満たしてくださる、あらゆる主の力ある御業、と言ってもいいのです。その天に満ちているシャロームによって、私どもが支えられて、生かされていることの恵みを歌っているのです。
ですから私どもも礼拝において、主の恵みのもとで、生涯にわたって、主のあらゆる力ある御業によって導かれていることを信じて、
「天には平和、
いと高きところには栄光」と賛美することができるのです。天に満ちているもので、私どもも満たされていくのです。
喜ばしい賛美の横で、「先生、お弟子たちを叱ってください」(39)と、主イエスに向かって訴える者たちがいました。弟子たちの賛美が、彼らには不必要だと思われたのでしょうか。いっしょに賛美することなどできなかったようです。
しかし主イエスは、はっきりと語りかけられました。
40節「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」
「石が叫び出す」というのは、この人たちの賛美を無理やりに消し去るようなことをしても、主は石を用いてでもその賛美を響かせるということです。弟子たちの賛美を、主イエスは喜んで受け入れ、また必要なものとなさったのです。
先ほど、このとき弟子たちは、主イエスのことがどれほどわかっていただろうか、と言いました。十字架に主がおかかりになったとき、彼らは逃げ去った、何が起こっているか、分からなかったのです。
主イエスは、自ら十字架へと向かわれたのですが、十字架は神のさばきがなされるのです。主イエスが私どもに代わってさばかれ、それゆえに私どもの罪が赦されて救いを受ける、そのことは、弟子たちには全く思いもかけないことでした。
しかし主イエスはこのとき、「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」と言われたのです。弟子たちのつたない思いの中での賛美が、とこしえに続く賛美であることを深く心にとめて、どうしても必要な、礼拝の賛美として喜んでくださった、いつまでも喜んでくださったのです。主は、私どもに対しても語りかけてくださるのです。
「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」
やがて、ペトロやほかの弟子たちも、また福音書を書いたルカも、はっきりと主イエス・キリストを信じるようになりました。それは、聖霊の働きによるものです。教会は、神の霊、キリストの霊である聖霊によって生まれたのです。
「天には平和」と歌ったその言葉の通り、天に満ちている神の霊によって、私どもは導かれて主の御言葉を聞きとることができるのです。
ルカは、主の復活のあとに、この福音書を書きました。そのときに、先ほども言いましたように、このときの弟子たちに自分たちを重ねるような思いで記したのではないか。
かつては、つたなかったけれども、主が信仰を与えてくださったと信じて、復活の主を再び迎える思いで記したということです。
私どもも、教会の主として、復活の主をお迎えする賛美を共に献げたい。主は、私どもの賛美を喜んで受け入れ、いつまでも御心に留めてくださいます。もったいない、喜ばしいことです。
弟子たちが主イエスをお迎えしたときに、主をお乗せしたのは馬ではなく、ろばでした。このことは、とても大切なしるしです。王は軍馬にまたがるものですが、救い主である王は、軍馬ではなく、ろばに乗られるのです。このことは、ゼカリヤ書の預言の成就でもあります。
「見よ、あなたの王が来る。
高ぶることなく、ろばに乗ってくる
雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)そのことを弟子たちはあとで知ったかも知れない。
主イエスは、乗られるろばを連れてくるときに、弟子たちに「主がお入り用なのです」との言葉を授けました。これは意味を詳しく訳すと「このろばの主がお入り用なのです」となります。ろばに命を授けた主なる神が「お入り用なのです」ということです。
「主がお入り用なのです。」この言葉を、古くから教会では、私どもへの主の言葉として受け取ってきました。主が私のような者を、どうしても必要とされている、そのことを信じて招きの言葉を受け取っていきましょう。主が私どもに「わたしがあなたを必要としているのです」と語ってくださる御言葉を信じて、共に献身していきたい。献身していくことは、今日の個所では主をお乗せする、ろばとして教会が生きていくことです。
主イエスが乗ってくださったろばは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったとあります。人を乗せるぐらいには成長していたけれども、それまで人を乗せた経験のないろばであった。そしてはじめてお乗せしたのが主イエスであった。そのことは、全く経験のないものを、主が喜んで用いてくださるということです。私どもの経験や力の上に、主はお乗りになるのではないのです。主をお乗せするにはどこまでも不十分な私どもを、主は喜んで用いてくださいます。実に喜ばしいことです。天にある平和で満たす恵みの主が、私どもをも用いてくださることを信じていきましょう。
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