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2024年5月12日(日)

復活節第7主日

 

礼拝説教「さらに与えられる」              


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書 19:11-27


<讃美歌>

(21)25,16,113,508,64,28

 

 主イエスはたとえを話されました。ある人が、王の位を受けて帰るために、遠くへ旅立った。そのときに、しもべらに一ムナずつ渡して「これで商売をして待っているように。」と。一方、その人が王になることに反対する者たちが、使者を送って、王になることをとどめようともした。その人は結果、王の位を受けて帰ってきたが、しもべたちにあずけたものをひとりひとり確かめたのです。一人のしもべは「あなたの一ムナで十ムナもうけました。」と報告しました。一ムナは四ヶ月ほどの賃金に相当するようです。「あなたの一ムナで十ムナもうけました。」というのは、直訳すると「あなたの一ムナが十ムナもうけました。」となり、自分の努力よりも、託されたものが自ら宝を生み出したことをたたえているところがあります。

 

 主イエスはムナのたとえで、ひとつには教会に託しているものをたとえられていると言われます。教会に主が託しているものは、主イエスの御言葉であり、主イエスの救いのよきおとずれ、福音です。

 主イエスの福音は、その宝の恵みが自ら宝を生み出していくのです。私どもは、主イエスの福音という宝をいただいているという恵みに仕えていることをどれほど心にとめているでしょうか。

教会に託されている福音という宝は、主が再び来られるときに至るまでです。そのときまで、忍耐して待ち望んでいく必要があります。しかし託された福音の宝が自ら宝を生み出してく信仰と希望に生きることができるのです。

 たとえでは、反対する勢力があるように、私どもには苦労がありますが、それは主に仕えていく喜ばしい労苦なのです。

 

 このたとえの背景には、当時よく知られていた話があるようです。ヘロデ大王の子アルケラオが、父からの王位を継承するために、ローマへ旅をした。そのとき同時に、反対する者たちの使者も送られた。結果、アルケラオは、代官(エスナルク)の位を受け、実質的に王として治めた。そして、反対した者たちを厳しく処罰したというのです。

 主イエスのたとえでも、「ところで、わたしが王になることを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」(27)とあります。主イエスがたとえの中であっても、このような厳しいさばきの言葉を語られることに、つまずきさえ感じるかもしれないのです。しかし私どもはまず、主の御言葉の厳しさの前に、畏れをいだいて立つべきです。主を畏れ敬う心を失ってはならないのです。

 

 主イエスのたとえを聞くときに、主イエスのたとえを解くカギがあります。たとえのカギは、主イエス・キリストは、話されるたとえの結果を引き受けておられるということです。

 このたとえで、「ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」と言われて、その言葉の通りに、実際に打ち殺されたのは誰か、ということです。

 

 引き渡され、父なる神の御前で、十字架の上にさばかれ殺されたのは、主イエスご自身です。主イエスは反対していた敵を打ち倒されることはなく、そのさばきの前に、自ら立ちふさがってくださったのです。

 罪を犯して神の御心を悲しませ、神に敵対していた私どものために、主イエスは立ちふさがってくださるように、命を献げられたのです。

 ですから、「ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という言葉は、のろいの言葉、さばきの言葉ですが、主イエスによって、さばきに罪の赦しの救いがもたらされ、のろいが祝福に変えられたのです。

 

 このムナのたとえのすぐ前には、ザアカイの救いがあります。そして「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された」(11)とこの箇所は語り始めています。

 人々が聞き入っていた主の言葉は「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10)という語りかけです。

 ムナのたとえでも、一ムナを取り上げられたしもべは、この先どうなってしまうのかと思います。しかしそのような、「失われた者」にこそ、主は救いを与えるために、エルサレムへと向かっておられたのです。ルカは、この個所に先立つ18章で、主イエス・キリストが、三度目にご自身の死と復活を弟子たちに話されたことを記しています。

 

 ルカ福音書は、主イエスが十字架に殺され、復活なさったあとに記されました。ですから十字架の言葉は、福音書全体に響いています。主が十字架の上で、父なる神のさばきの前で立ちふさがってくださり、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)と、とりなしてくださった御言葉は、この箇所にも響いているのです。

 

 主イエスが救いを成し遂げてくださった宝は、教会に託されています。主から託された宝を、十分に用いているかと問われると、自分だけを見ていては、確信が持てないでしょう。しかし主イエスご自身が、とこしえに救いを満たしてくださった、その宝が宝を生み出すように受け継がれて今に至っていることを信じて、その恵みに生きていきましょう。



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