【復活節第2主日】
礼拝説教「神に義とされる喜び」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 18:9-14
<讃美歌>
(21)25,17,332,445,64,27
主イエスのたとえが記されています。二人の人の祈りで、その祈りは、とても対照的なものです。
ひとりはファリサイ派の人で自信に満ちています。おそらく礼拝堂の前の方で、うやうやしく祈っている姿は、人々の目にも止まったでしょう。尊敬のまなざしで見られていたかもしれません。この人は、心の中で祈っていたようですが、その心の思いは、主なる神には明かでした。どんな祈りだったかというと、「神様、わたしはほかの人のように、奪い取る、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(11)と、人と比べていかに自分が正しく歩んで来たかを誇るように祈っています。また「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(12)と、自分のこれまで積み上げてきたものを神様に差し出すようにして祈っています。
一方、もうひとりは、徴税人で、遠くに立って、目を天に上げようとせず、胸を打ちながら言った、とあります。もしかしたら、礼拝堂の後ろの片隅で祈ったかもしれません。うつむいたままだったようですから、人々の目には止まらなかったでしょうし。あるいは、当時、徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国に治める税金を徴税していましたから、ユダヤ人である徴税人は、ローマに仕えている者として忌み嫌われていました。気づいても、お前の来るところではないと思われたかもしれません。
ルカは、ファリサイ派については、「心の中でこのように祈った」(11)と記していますが、徴税人についてはただ、「胸を打ちながら言った」(13)と書いています。もしかしたら主イエスは、徴税人が、神様に祈る資格もないと思っていたのかもしれない、その思いを受けて「言った」と話されたのかもしれません。神様への心の思いが、あふれて言葉に出たのではないでしょうか。
彼はただ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神様に告白しました。彼には、神様に差し出すものは何もなかったのです。
二人の祈りを、どう思うでしょうか。二人のそれぞれの祈りは、神様に受け入れられたのでしょうか。
主イエスははっきり言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(14)「この人」とは「胸を打ちながら言った」、徴税人のことです。
「義とされて」というのは、神に受け入れられ罪を赦されたということです。
ルカは、この主イエスのたとえを、自分たちへの語りかけと信じて記しました。そのことは、次の言葉の理解がカギになります。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(9)
「うぬぼれて」というのは、少し意訳であって、「自分は正しい人間だと自任して」という意味です。
自分を正しいところにおいて、人を見下したり間違っていると裁いてしまうのは、私どもが絶えず気をつけるべきことです。
ルカは、このたとえを主イエスが弟子たちに語られ、自分たちにも与えられたと信じたのです。
このファリサイ派の人は、自分たちが積み上げたもの、その良い行いによって神に認められていると思っていたようです。そのような、自分の救いの根拠を自分の中に見いだす思いと、主イエス・キリストの福音は全く相容れないものです。
しかし実は、ファリサイ派の者たちは、当時の人々からはとても尊敬されていたようです。品行方正で清貧に徹していた、信仰深い人々でありました。そのファリサイ派の人が、心の中で祈り自らを差し出すように感謝の祈りをささげているときに、その傍らにいた者を指して「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と見下したのです。自分が正しいところにいると自任していた。しかし神の目から見るなら、うぬぼれていたのです。
このことは私どもに関係のない話でしょうか。
自分を正しいところにおいて、人を間違っていると見下してしまうことは、自己義認の罪とも言われます。自己義認は気づきにくいものです。気づきにくい自己義認においては、ある牧師から聞きましたが、こんな祈りも生まれるというのです。
「このファリサイ派の人のようでないことを感謝します。」
考えてみれば、人は誰であっても、神様の前に、その言葉と行い、その思いを差し出して、神様に認めてほしい思いを抱くように思います。しかし、自分の言葉と行いによって、自分を正しいと、すなわち神様から義と認められるほどに、私どもは正しい者ではないのです。
自分で自分を正しいと認めようとする私どもを、主イエスは憐れみをもって招いてくださっています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあるのは、自分で正しいと辞任して、人を裁いてしまう者を招いて、教えておられるのです。
ファリサイ派の人たち同様に、自分を正しいところにおいて、人を間違っていると裁き、見下してしまう私どもは、そのような罪をこそ主に告白して、
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈る必要があるのです。
主イエス・キリストは、たとえを話されたとき、その続き、結論を引き受けておられます。
この徴税人が、また私どもが義とされるために、主イエスはどうなさってでしょうか。それは、十字架の上に命を献げてくださったのです。このたとえを話されたときには、やがて十字架にかかって、私どもが受けるべき神の審きをその身に受ける覚悟をもって語られたのです。この章の31節からは、ご自身の十字架の死と復活を三度目に語られています。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と、私どもが祈る祈りが受け入れられ、義とされるために、主は命を献げてくださいました。
神の御前において、私どもは罪を赦していただくために何も差し出すものがなくて、むしろ自分の罪を差し出して祈るのです。そして差し出す罪と交換するように、主イスの赦し、救いを受け取る恵みにあずかっているのです。そのような交換は、全く不釣り合いな交換、あり得ない恵みです。しかし主イエスは私どもがへりくだって差し出す罪を、喜んで受けとり、救いを与えてくださいます。そのような聖なる交換がいまもなお、与えられるのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る喜びに生きることができるのです。
神様に祈るときに、差し出すものが何もなくても祈ることができるのです。むしろ、何も、自分には祈りを聞いていただく根拠がなくても、主を信じて祈ることは、「へりくだる者」の姿です。主イエスの救いを受け取るしかない私どもを、主は喜んで招き、神へと向き直って祈る幸いに生かしてくださるのです。
主イエスを信じて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る喜びに生かされていきましょう。
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