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shirasagichurch

2024年4月28日(日)

復活節第5主日

 

礼拝説教「見えるようになれ」               


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 18:31-43


<讃美歌>

(21)25,7,208,323,64,27

 

 主は深い思いをもって12弟子を呼び寄せ、語りかけられました。ご自身の死と復活についてです。初めてのことではなく、ルカ福音書では三度目のことになります。それほど十分に語ってこられたということですが、彼らには「何も分からなかった」(34)というのです。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」とあります。

 理解できなかった弟子たちのことを、私どもはどう思うでしょうか。少なくとも、ルカは決してこのときの弟子たちを愚かだとは思っていないはずです。むしろ、自分たちの姿を重ねるようにして記しました。私どもも、自分たちのことがここに語られていると信じて、御言葉に導かれていきましょう。

 

 ルカは、主イエスが語りかけられたときに、「この言葉の意味が隠されていて」と書きました。どういうことでしょうか。

 考えてみれば、主イエスの言葉は、神の言葉であって、そもそも人には十分に理解できないのではないでしょうか。その意味では人には隠されていて、主なる神がその言葉の意味を開くようにして、理解を与えてくださらなければとても分からないのです。

 やがて弟子たちは、主イエスが復活なさったあと、主の御言葉を、聖霊の働きによって、はっきりと信じるようになります。主の十字架のお苦しみは、旧約聖書に預言されていたことが成就したのだと理解するようになったのです。

 ここで主イエスは自らを「人の子」と呼んで、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」(31)と言われました。どこに書かれているのでしょうか。預言者が書いたこととしてとしてまず言われるのは、イザヤ書53章です。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」(1)とありますように、神様が言葉を開いて教えてくださらなければ、主の十字架が私どもの救いであることはとても信じることができないのです。

 パウロは、イザヤ53章1節の言葉をローマ書に引用して「『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(10:16)と記したあと、こう語ります。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

 弟子たちはやがて、聖霊の働きによってイエスがキリスト(救い主)であると信じることができたのです。キリストの言葉を、聖霊の助けのもとで聞きとることができるようになりました。その恵みに、私ども同じように生かされているのです。

 おそらくルカは、主イエスをさらにはっきりと見上げて信じていきたいという祈りをもって、ある目の見えない人の話を記したのではないかと思われます。

 ルカがここに記したことは、目の見えなかった人が、はっきりと見えるようになったことです。しかもはっきりと主イエスを見ることができるようになりました。とても大切な、聞きもらしてはならないことは、その人が見えるようになったというだけではなく、

「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43)ということです。

 マルコ福音書によれば、この人はバルティマイという名です。マルコがバルティマイという名を記したのは、当時の教会でその名が知られていたからだと言われます。よく知られていた信徒、あるいは牧師だったかも知れません。

 ではルカはなぜ名前を書かなかったのでしょうか。単純に知らなかったかもしれません。あるいは、あえて名前を記さずに、この話は、私どものことだと、ルカは自分に与えられた恵みの喜びを、ある人が見えるようになって主イエスに従ったことに重ねて記したのではないか。ルカは、自分に信仰のまなざしが、主イエスによってもたらされたことを信じて、この喜びの出来事を記したのです。

 

 「何をしてほしいのか」(41)と主イエスの言葉に導かれて、ある者は願いました。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」「目が見えるようになる」というのは、別な訳では「まなざしが与えられる」です。

 「主よ、まなざしを与えてください」と願ったときに、主はその願に応えて「見えるようになれ」「わたしからまなざしを受けよ」と語りかけて、信仰のまなざしの喜びに生きるようにしてくださったのです。

 

 かつてジョン・ニュートンは、奴隷たちを売り買いするために運ぶ奴隷船で働いていたのですが、突然嵐の中、主に導かれて船をおり、やがて牧師となったと言われます。彼の詩による、有名なアメイジンググレイスの一節に、日本語には訳し切れていませんが、「かつては見えなかったが、今は見える」という讃美があります。主を信じて生きるまなざしがあたえられた喜びを歌っているのです。

 主はひとりの人に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(42)と語りかけられました。「あなたの信仰」と主が言ってくださっている「信仰」は、主イエスが彼を招かれて、「何をしてほしいのか」と問うてくださったから与えられたものではないでしょうか。私どもも、主から「あなたの信仰があなたを救った。」と言われても、主よ、私の信仰は主なるあなたが与えてくださった、授けられた信仰です、と答えるのではないでしょうか。しかし主は喜んで、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけてくださるのです。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

 私どもにも主は、「見えるようになれ」「わたしのまなざしを受けよ」と語りかけてくださるのです。主を信じて見上げるまなざしを与えられて、共に神をたたえながら、主に従ってまいりましょう。



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