【復活節第4主日】
礼拝説教「神にはできる」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 18:18-30
<讃美歌>
(21)25,9,156,522,64,27
主イエスのもとに来た者が問いかけています。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(18)「何をすれば」というのは、どんな思いから質問しているのでしょうか。彼は、「何をすれば」という、行いによって救いに到達しようとしていたと思われます。しかし聖書が語るのは、人は自らの行いによって神に義と認められることはできないので、主の救いを必要としているということです。私どもも皆、神様の救いを必要としています。
主イエスのもとに来たのは議員だったとあります。議員というのは、当時のユダヤ議会(サンヘドリン)の一員と考えられますので、指導者の一人です。金持ちであったとあります。
議員とか金持ちというのは、ある意味で特別な存在かもしれません。私どもの話としてすぐに身近なことと感じない方もいると思います。しかしここに記されていることを、当時の教会は自分たちのこととして語り継ぎました。自分たちの歩みを照らす光、すなわち、自分たちは神様の御前にどのような者であるかを示す主の御言葉として愛したのです。私どもも、自らの思い、教会の歩みを照らす御言葉として、主の語りかけを聞きとっていきたいと願います。
主イエスは「善い先生」と呼びかけた彼の言葉に対して、神おひとりにのみ向けられるべきものだと言われます。彼は、主イエスが神の独り子で、人となられた神だとは信じていなかったはずです。神おひとりにのみ向けられるべき言葉を、彼がそうだとは信じていない方に向けて用いるのは、神様との関係がずれていることが示されているのです。
主イエスは、彼の問いに答えて最終的には「わたしに従いなさい」(22)と語りかけられます。永遠の命である主イエスに従っていくところに、永遠の命を受け継ぐ救いがあるのです。主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。」(22)と言われました。「持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われましたが、どうしてそのようなことを言われたのでしょうか。決して、持ち物をすべて売り払って施すことが救いの条件ではないはずです。「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われた主イエスは、彼が金持ちで、持っている者に心を奪われており、神の恵みに支配されていないことを明らかにされたのです。
ある神学者は、大変な金持ちであった彼が、サンヘドリンの議員であったなら、主イエス・キリストを十字架へと追いやる議会の席で、賛成票反対票を投じる立場にいたのではないかというのです。主のイエスのもとに来た人であった彼が、反対したのか、票を投じることをためらったのかはわかりません。あるいは、彼がやがて議員を捨て、主の恵みに導かれて、主イエスに従ったかも知れないのです。
いずれにしても、主イエスはこの議員の救いのためにも十字架に命を献げられました。ある意味で、持っておられるすべてを献げてくださり、その献げものによって私どもが罪を赦されて救いをいただく道が開かれたのです。それは、永遠の命を受け継ぐ道です。
私どもは誰ひとり、持っているものをすべて売り払い、主に献げて主に従っていくことはできないのではないでしょうか。しかし主イエス・キリストは、それよりもはるかにあり得ないことをしてくださったのです。それが十字架の救いです。私どもが神に払うべき罪の代価を、代わりに払って審きを受けてくださったのです。
当時、金持ちであることは神に祝福されていると考えられていました。人々はおそらく、金持ちは神の国、救いに近いと思っていたようです。ですから、主イエスが「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」(25)と言われたとき、非常に驚いたのです。
「らくだが針の穴を通る」ことにたとえられたのは、全く不可能だということです。人は、自らが差し出すものによって救いを受け継ぐことはできないということです。あるいは「金持ち」が持っていいるものによって心を支配されて生きていたように、人はどこかで、持っているものによって安心しようとしているとすれば、人を救うことは、およそ不可能に近いことにもなります。
しかし主イエスは、愛をもって語りかけてくださったのです。
「人間にはできないことも、神にはできる。」(27)
主イエスはこの箇所に続く31節以下で、十字架の死と復活について、三度目に語られます。
「人間にはできないことも、神にはできる。」と言われたときに、おそらく十字架にその身をゆだねる覚悟をもって語りかけられたはずです。主の御言葉を聞いている弟子たちや群衆、そして主イエスのもとにやっていきたある議員のためにも、やがて主を信じることになる多くの人々、私どものことも、いやすべての人のことを思いにかけておられたはずです。
「人間にはできないことも、神にはできる。」という主の言葉に続いて、ペトロが、自分たちは持っているものを捨てて従ってきたことを告白します。ルカは、このペトロたちの歩みが、「人間にはできないことも、神にはできる。」と語られた主の恵みによることを信じて記したのです。すべてにまさって主イエスを愛して従うことも、神がそうなさってくださるからできることです。ルカは、そのような喜びと感謝をもって記したはずです。「人間にはできないことも、神にはできる。」という主の御言葉は、ルカの教会の告白となったのです。
私どもも、喜びと感謝の告白を受け継いでいきましょう。
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