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2024年4月14日(日)

復活節第3主日

 

礼拝説教「子どもとして生きる」            


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 18:15-17


<讃美歌>

(21)25,15,329,509,64,27

 

 主イエスのもとに、人々が乳飲み子までも連れてきました。主イエスに触れていただくためです。おそらく母親たちだったでしょう。そのとき弟子たちはそれをしかったのです。触れていただこうとしたのは、祝福を受けるためだと思われます。弟子たちがしかったときに、主イエスはそれを止められました。

 なぜ弟子たちはしかったのでしょうか。このとき主イエスは厳しい歩みをしておられました。十字架へと向かわれることをこのあと三度目に話されます。おそらく主イエスの言葉に弟子たちは緊迫感さえ感じていたかもしれません。子どもたちが来ることで、主イエスの大事な話を中断されるような思いがしたのではないかと想像します。

 しかし主イエスはむしろ、そのようなときであるからこそ、祝福を求めてくる者を、子どもたちを喜んで受け入れようとされたのです。

 

 主イエスは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17)と語られました。

 「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。 「子どものように」というと、素直に、とか何の駆け引きもなくというふうに理解されます。ここで祝福を受けている「子どものように」と考えれば、それはただ救いを受け取るほかない者として、神の国の恵みに生きていくという意味になります。

 

 「子どものように神の国を受け入れる」という言葉には、もうひとつの訳語が可能です。カトリック教会の有名な神学者によれば、「子どもとして神の国を受け入れる」と訳すことができるというのです。

 「子どもとして・・・受け入れる」というのは、どういうことでしょうか。子どもを私どもが与えられるとき、それは全く神様から授かったものです。神様から与えられなければ決して得ることはできない存在です。

 そのように私どもは、神様からその存在を与えていただいたひとりひとりとして神の国を受け取る必要があるのです。

 

 また「子どもとして神の国を受け入れる」というのは、救いはすべて神様から授けられるものであって、私どもは信じて受け取るほかはないということです。自分の命だから、自分の子どもだから自由にできるものではありません。神様から授かった救いの命を、大切に育むようにして継承していく必要があります。

 

 神の国を「子どもとして」であっても、「子どものように」受け入れるであっても、そこに何も差し出すものがないのは同じです。何も差し出すものがなく、ただ受け取るしかない者として、主から受け取っていく恵みがここに語りかけられているのです。

 

 神の国とは、神様が恵みをもって支配されるところと言われます。私どもが受ける理由がないのに、主が愛をもって与えてくださるものが恵みです。その恵みを、主の聖霊の働きのもとで御言葉によって受け取っていくのが礼拝です。礼拝に神の国が表されているのです。

 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」(16)と語りかけられた主イエスは、私どもをも招いてくださっているのです。

 

 ふさわしく神の国を「子どもとして(子どものように)」受け取っていく姿は、直前の主イエスのたとえにもあります。徴税人の祈りです。

 徴税人は、何も主に差し出すものがないところで、自分の罪を神様に言い表して祈ったのです。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13)

 彼は神様に祈り、むしろ自らの罪を告白して主なる神に差し出し、神の国を受け取ったのです。主に罪を赦されて、義とされたのです。

 

 何も主に差し出すものがなく、子どものように神の国を受け入れる恵みは、イザヤ書55章にも語られています。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 銀を持たない者も来るがよい。

 穀物を求めて、食べよ。

 来て、銀を払うことなく穀物を求め

 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(55:1)

 

 私どもはまさに、主からうるおされて、その魂の渇きを満たしていただかなければ生きることはできない者です。しかも、主からのよいものを受け取る対価を持ち合わせていないのです。「価を払うことなく」いただく恵みに生かされていることを信じて、神様から子どもとしていただいた喜びに生きていきましょう。 



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