【受難節第3主日】
礼拝説教「ゆるしなさい」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 17:1-10
<讃美歌>
(21)26,20,294,467,64,27
2023年度の最後の3月を迎えました。この年度もここまで守り導かれたことを感謝して、共に新しい年度へと、主の恵みによって導かれていきたい。
そのために御言葉に共に聴き、神へと向き直る悔い改めをもって、さらに恵みに生かされていきたいと願います。
17章の1から10節には、「赦してやりなさい」という主イエスの語りかけが、二度も記されています。主の赦しに共に生きることこそ、新しい年度への準備として、最もふさわしいものです。
このルカによる福音書も全体を通して、主イエスの「罪の赦しによる救い」(1:77)を伝えています。
主イエスはこのときすでに十字架への道を歩んでおられます。やがて十字架に命をささげられることを確信なさっておられる。そして、復活の後の教会の歩みを見据えて語っておられるのです。ルカもまた、主の復活後の教会の歩みにおいて、この福音書を書いています。ですから、主の語りかけは、ルカは自分たちの教会への語りかけと信じて記しています。主は、私どもが自らの罪が主イエスの十字架の贖いによって赦されていることを信じ、また自らも赦された者として生きるよう、人を「赦してやりなさい」と語りかけられるのです。
愛をもって厳しく語りかけられた主イエスは、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」(1)と言われました。
ここで語られる「つまずき」について、有名な神学者の徳善先生は、まことの福音からずれていくという意味での「つまずき」だと言われます。私どもがしっかりと、主イエスのまことの福音に立ち、罪の赦しを信じ、その福音を生きていくことは、主の働きがなければ到底できないことです。
ですから、弟子たちは自らの力なさを思い「わたしどもの信仰を増してください。」(5)と主イエス・キリストに願ったのです。
弟子たちが自らの乏しさを思ったのは、主イエスの御言葉に照らされたからでしょう。
「一日に七回あなたに対して罪を犯し、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(4)
これは実際のことを思い浮かべると、とてつもないことです。一生のうちに七回でもすごいことではないでしょうか。しかし、一日に七回というのは限りないことで、それほど、神の赦しは限りなく大きく、とらえがたいものなのです。私どもはその赦しのすべてを自覚できているでしょうか。生涯をかけて、神の赦し、その救いの大きさを知り続けていく必要があります。そのようにして神の赦しを知り続けていく喜びが与えられているのです。
使徒たちが「わたしどものの信仰を増してください。」と言ったとき、主イエスは、驚くべきことを語られました。信仰は、からし種一粒ほどでもあれば、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせと言ってもその通りになるというのです。その意味では、信仰は私どもの考えをはるかに超えているものです。信仰は、あるかないかであって、少ないとか、もっと増やしてくださいとか量ではかるようなものではないということです。
弟子たちは信仰を、自分を出発点にして考えていたかもしれません。しかしそもそも信仰は、主なる神に源があり、主から与えられるものなのです。
マルティン・ルターは「ローマ書序文」で「信仰とは私たちの内における神の働きである。」と言いました。
信仰を自分の力や自覚できるところでのみ考えると、人間的になってしまいます。まさに信仰を与えて働きかけてくださる神様を見失ってしまうことになるのです。
木に向かって海に移るように言うことは、まず実現不可能ですが、もっとありえないことに、主なる神が私どものすべてを赦し、私どもが受けるべき罪の裁きを主イエス・キリスト自ら、十字架の上で受けてくださったのです。その神の真実から、信仰が生まれて与えられるのです。
信仰が私たちの内における神の働きであるなら、神の赦しを信じて自らを赦し、また人を赦して共に生きることこそ、私たちの内における神の働きであります。
喜びと感謝をもって主イエスの赦しに生き、信仰に導かれることは、神の働きであって、だれも自分を誇ることはできないはずです。
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と主をたたえて告白することができるのです。
主が恵みのうちに、愛によって私どもの内に働きかけてくださることを信じていきましょう。主の愛による赦しを信じて、自らも、赦す者となっていきましょう。
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