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2024年3月24日(日)

受難節第6主日

 

礼拝説教「希望をもって祈ろう」        


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 18:1-8


<讃美歌>

(21)26,1,295,129,64,27


 主イエスは私どもに、祈りを教えてくださいます。祈るときには、失望しないで祈り続けることを教えておられます。あきらめないで祈り続けることが必要であることを、私どもは頭ではよく分かっているかも知れません。しかし実際には、あることについて、希望をもって祈り続けられないこともあるのではないでしょうか。ただ、主イエスは、私どもの祈りが続かないで途絶えることがあることを、私ども以上によく知っておられるはずです。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」という言葉は、元々の言葉では「絶えず祈ることが必要である」という意味です。この「・・・必要である」というのは、神的必然と言われるのです。

 主イエスは、私どものことをすべてご存じで、その上で、失望しないで祈り続けることは必要である、と語りかけておられます。主イエスの語りかけに共に思いを深めていきましょう。

 

 失望しないで、希望をもって祈り続ける必要があることを教えるために、主イエスはたとえを話されました。その意味では、たとえの主人公は、あきらめないで祈った模範ということになります。しかし私どもが考えるような模範的な祈りと言えるでしょうか。たとえを思い巡らせたい。

 

 主イエスのたとえには、裁判官が登場します。「神を畏れず人を人とも思わない」(2)、また「不正な裁判官」(6)とあります。どんな不正かは書かれていません。賄賂をもらっていたのでしょうか。ある神学者は、神を畏れないところに不正があると言いました。確かにそうです。神を畏れ敬わないなら、人を人として正しく扱うことはできないでしょう。

 そのような裁判官のもとへ、ひっきりなしにやってくる「やもめ」がいました。たとえの主人公です。彼女は「やもめ」であったので、主人を失っておそらくひとり身であったと思われます。当時、社会的に「やもめ」は最も弱く力ない存在です。「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官であっても、彼女にとっては最後にたよるような存在であった。しかしその求め方は、とても激しいものです。

 「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」(5)「 わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」というのは、直訳すると、「わたしの目の下を打ちたたく」という意味です。

 結果、裁判官はあきらめて、彼女のために裁判をして正当に扱うことをしたのです。たとえの中で主イエスは、「まして神は」(7)と語りかけられます。裁判官とやもめの姿にたとえて、主なる神と私どものことを教えておられるのです。

 神を畏れず人を人とも思わない裁判官であっても、ひっきりなしに訴える者に応えるはずである。まして私どもの主なる神は、すみやかに祈りを聞いてくださるということです。

 

 考えてみれば、私どもが祈るとき、私どもが祈る前から、主は必要をすべてご存じです。しかしそうだからと言って、祈らないでいいわけではないのです。祈ることが必要です。それは、神的必然です。主なる神は祈りを待っておられます。祈って神に言葉を伝えることを、主は心から待っていてくださる。私どもの祈りを喜んでくださるのです。

 しかもこのたとえからするなら、祈りはまず、神に向かって叫ぶように嘆き、訴えることであります。「やもめ」がそのよい例です。

 

 このやもめのことを、アウグスティヌスをはじめ多くの神学者は、教会のことだと言います。考えてみれば私ども日本の教会もそうですが、社会的に力を持たない、全く小さな存在です。そのような私どもだからこそ、主に依り頼んで祈ることが必要です。

 教会が祈ることをやめたら、教会でなくなってしまいます。主は祈りを聞き届けるお方であると信じて、希望をもって祈り続けることが必要です。祈り続ける力の源はどこにあるのでしょうか。

 

 たとえを語る主イエスは、そのたとえの結論を引き受けて語りかけておられます。祈ることが必要だと言われる主イエスは、教会の祈り手、とこしえに、執り成してくださっている救い主です。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)

 執り成し手である主イエスこそが、希望をもって失望せずに祈り続けておられます。その主イエスと連なって、教会もまた祈るのです。祈り続ける力の源は主イエスにあるのです。

 主イエスが、祈りの力の源となっていてくださるので、途絶えるような祈りをする弱い私どもの祈りもまた、希望をもって祈る祈りとされていくのです。主イエスが祈りを支えていてくださることを信じていきましょう。 初代教会も、このルカによる福音書を記した教会も、主イエスが祈りを支えてくださり、祈りの源となっていてくださることを信じたのです。

 

 私どもの弱さ、人の不信仰をすべてご存じである主イエスは、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(8)と問われます。教会が信仰を抱いて祈っているかという問いでもあります。

 「人の子が来るとき」とは、主が再び来られる日、再臨の日のことです。それは救いの完成の日でもあります。そのときまでずっと祈りを失っていないかという意味で、「果たして信仰を信仰を見いだすだろうか」と問うておられるのです。

 

 私どもだけを見るなら、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という問いは、厳しい問いかけです。大丈夫ですとは、自分たちだけを見ていると、とても言えないのです。

 しかし問いかけておられるのは主イエス・キリストです。とこしえの祈り手である主イエスが問いかけつつ招いておられます。ひとりのやもめのたとえをもって、いつでもわたしのもとに来ればいい、訴えるように祈ればいい、祈ることは難しいことではない、神に祈ることは人にはどうしても必要だと招いておられるのです。

 私どもを招き、祈りの源となってくださっている主イエスが、どこまでも祈りを与え続けて信仰に生かしてくださるのです。だから、キリスト教会は今日まで2000年以上も歴史を重ねることができました。

 

 エレミヤ書29章11‐14節を思い起こします。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」

この主の語りかけの背景にあることは、バビロン捕囚です。北イスラエルがすでに滅び、南ユダもバビロンに滅ぼされて、おもだった者たちがバビロンへと連れ去られて国が空っぽになりました。多くの人々はあきらめたのです。しかし主はあきらめてはおられなかった。その思いを預言者が伝えたのが、エレミヤ29章です。やがて故郷に帰ることができる、失望しないで祈るようにと語りかけたのです。

 

 イスラエルの民は、想像もしなかったことでしたが、やがて故郷に帰ることができました。壊れた神殿、礼拝堂を建て直すこともできたのです。神殿が再び建てられたのは、建物の話だけではなくて、その神殿での祈りが回復したのです。礼拝は、祈りのとき、神を信じて祈るときです。

「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」のです。

「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」と、待っていてくださる主が、礼拝で出会ってくださるのです。礼拝で主に出会うことはまた、互いが出会うことと全くひとつに結びついています。礼拝に集う私どもは、互いを思いやり、あいさつを交わし、励まされてそれぞれのところへと遣わされて帰っていきます。それは、互いの中に生きる主と出会っていることでもあります。私ども互いが主を信じて恵みを受け、主の御言葉に生かされる礼拝は、主なる神と出会うときであることを知り続けていきましょう。

礼拝をささげて心から祈ることは、主なる神が与えてくださった、かけがえのない恵みです。礼拝で祈るときに、生きておられる主なる神が、私どものただ中におられることを信じて、主と出会い続け、主なる神への信頼を深め続けていきましょう。



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