【受難節第5主日】
礼拝説教「見えない大切なもの」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 17:20-37
<讃美歌>
(21)26,17,300,390,64,27
聖書の御言葉を聞き取るときに、前後のつながりはとても大切です。しかしさらに重要なことは、私どもが思いを深めて聞き取ろうとするその前に、主イエスの尊い命が献げられていることです。私どもは、主イエスが命を献げられたことによって与えられている聖書の御言葉を聞きとっていきましょう。
前後のつながりについて、この箇所を有名な神学者は「エルサレムへの旅」(9章51節~19章28節)の区分の中に位置づけています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(9:51)とあります。
明らかに、この箇所で主イエスは、命を献げる深い覚悟をもって、「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(25節)と語られているのです。
このとき弟子たちは、はっきりと主イエスの十字架への道を理解できていたのでしょうか。残念ながら、ルカが弟子たちについて告白したことは「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(18章34節)ということです。
ルカによる福音書は、弟子たちの思いや行動に、自分たちの教会の実情を重ね合わせて記していると思われます。私どももまた、弟子たちの無理解を過去のこととはできません。私どもには本来、主の救いは「隠されて」いることで、主イエスの命が献げられた恵みによって、主イエスの語りかけを悟ることができるのです。
ですから礼拝において、主イエスの御言葉を聞く喜びがあることは、得難い神の恵みによる奇跡であります。そのような主の恵みを謙遜に受けとめていくことができるよう、自らの思いの中だけに留まることがないように、祈り求めていきましょう。
この箇所で主イエスは、ファリサイ派の人々の質問に答えておられますが、それはそばで聞いている弟子たちに向かっても語っておられます。同じような思いに留まる弟子たちをも照らして、そこから主イエスの思いへと強く引っ張り出しておられます。
どんなに私どもが罪深く、ふさわしくない思いに留まることが執拗であっても、そこから引き上げてくださる主イエスの力は、はるかに強く、私どもは勝てないことを信じているでしょうか。
少し前の17章5節で、「使徒たちが『わたしどもの信仰を増してください』」と願ったとき、主イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)と答えられました。彼らは、主イエスの命とつながって、主イエスを信じて見上げる信仰というよりも、自らの確かさをよりどころにしようとする思いに、知らず知らずに陥っていたと思われます。信仰の確かさは、主イエスの確かさにあります。
さて20節で「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねた」のですが、主イエスは「いつ」であるかという質問には直接答えられずに、彼らの神の国理解がずれていることに対して語りかけておられます。「いつ来るのか」ということは、まだ来ていない、という理解に立ちますが、すでに到来している神の国が分からずにいるのです。しかし、それは先程言いましたように、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、弟子たちの理解においてもそれは課題でありました。私どもはどうでしょうか。
主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」(21節)と宣言されます。主イエスのこの宣言は、私どもも聞くべき御言葉です。「神の国」というのは神の恵みの支配と言われます。その恵みの支配を、キリストの体である教会として与えられ、その体の一部とされている恵みのゆえに、教会は「神の国」の祝福に与っていると信じてきました。
そうであるなら、もはや「見える形」や「『ここにある』『あそこにある』と言えるもの」に引きずられていく思いとは関係なく生きているはずです。しかし、私どもは絶えずその愚かさ、罪深さのために、主イエスがそうではないと言われるものに心を傾けて思い煩っていることがあるのではないでしょうか。そのような私どもに、主は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(21節)と強く語りかけて、「神の国」の祝福の中に、立たせてくださるのです。
私どもの教会もそうですが、諸教会に、高齢化を嘆く声があるのは事実です。このままでは五年後十年後このようになる、と思って教会の存続を心配するその思いは、果たして「神の国」の祝福に立っているのでしょうか。まさに、主イエスが「見える形」と呼ばれるもの、『ここにある』『あそこにある』と安心できるもの、たとえば教勢のような数字で表せるものが確保される道筋を捜そうとして、もがいているのではないでしょうか。それは、ふさわしい神への嘆きでしょうか。何を嘆き、何を祈り求めるかが問われるのです。
ある研修会で、有名な神学者が講演をされました。これからの私たちの教会の伝道について篤く語るその先生は、高齢化していて、このままだと教会を維持できない、いろいろと困ってくるというような意味で伝道をしても、うまくいかないのは当然であるし、そのような動機で伝道すべきではない、という意味のことを語られました。自分たちの教会の将来の保持ではなく、周りの方たちが、どんなに主イエスの福音を必要としているか、そこから始めるのでなければならないというのです。
さらにはこのように語りかけられました。「主イエスが伝道したいとおっしゃっている。地上に生きておられた時、あまりの群衆の圧力に岸辺に立っておられなくなって、舟に乗って、岸辺を離れざるを得ないほどの、群衆の痛みの訴えに耐えられた主イエスが、ご自分の血を流してそれに応えられた主イエスが、今私どもの国のこの町の人々の救いのために、むしろうめいておられるし、私どもの奉仕を求めておられる。イエスが主であるということは、そういうイエスを、私どもの主としてお迎えし、その主イエスのご意志をもって教会のすべてのわざを支配していただくという決意を現すことに他ならない。」
その講演録を読み返しながら、主イエスが語られた神の国とつながる思いがしました。すなわち、「主イエスのご意志をもって教会のすべてのわざを支配していただく」ところに、神の国があるのではないでしょうか。そのような神の恵みの支配は、うめくほどの主イエスの伝道のご意志によって、私どもを伝道へと動かすのです。そうであるなら、「今私どもの国のこの町の人々の救いのために、むしろうめいておられる」主イエスのご意志にどれほど私どもが触れているかが問われているのです。
まさに主イエスは深いご意思をもって、「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と語られましたが、十字架に神の国の栄光の輝きがあることを、だれもそのとき見ることはできなかったのです。復活された主イエスが「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(24章45節)見ることができるようにしてくださったように、私どもも、主イエスの賜物として、私どもの間にある神の国の祝福を信じることができるのです。そのような神の国の祝福を受け継いで、その恵みの支配の中に生き続けることを赦されているのは、何より教会です。礼拝においてこそ、私どもは神の国の祝福の喜びを生きることができるのです。
22節以下で、主イエスは、「人の子が現れるとき」について、弟子たちに語りかけられます。再臨と呼ばれますが、主イエスが再び来られる日に備えた教会生活を、生きているでしょうか。
主が再び来られる日について、厳しい言葉があります。二人の内一人は残されるという意味のものです。しかしよく考えるべきは、主イエスはそれが起こることを願ってはおられないということです。
主の再臨を伝える箇所を理解するときに、ひとつの理解があります。厳しい裁きがあることを、ヨハネの黙示録は伝えていますが、しかし黙示録はこのようなことが起こらないようにと願って記されているという理解です。担当した「聖書人物おもしろ図鑑」にもそれを書きました。なおさら主イエスは、ここで語られるようなことが起こらないように願って愛をもって厳しく語られているのではないでしょうか。
「死体のある所には、はげ鷹もあつまるものだ」(37節)とありますが、主イエスの命とつながらない、滅びの中に立つことがないように、御自身の命に立ち続けるようにと願われて、厳しくも愛をもって主は語りかけておられるのです。
主が私どもを救い、御自身の命につながるようにしてくださったことは、私どもを主のからだの一部分として、私どもの痛みや病をもご自分のものとしてくださったということです。その主のうめくような思いは、私どもだけにとどまってはいません。ひとりひとりを愛される主イエスのご愛に触れて、私どもも主を愛し、自分を愛するように隣人を愛していくのです。
この説教の最初に、私どもは主イエスが命を献げられたことによって与えられている聖書の御言葉を聞きとっていきましょう、と言いました。主の尊い命がささげられた、主の命の御言葉を礼拝において聞き続けていきましょう。主の命の御言葉を聞き続ける礼拝によって教会は生きていくことを、心から信じていきましょう。
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