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2024年2月4日(日)

降誕節第6主日

 

礼拝説教「一緒に喜んでください」 


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 15:8-32  


<讃美歌>

(21)26,3,56,451,79,65-2,28 

 

 主イエスが語りかけておられます。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10)「神の天使たちの間に喜びがある」というのは、主なる神が天の使いたちと共に喜んでくださるということです。その喜びは、私どもを生かす喜びです。

 

 「一人の罪人が悔い改めれば」とありますが、私どもは神さまに赦していただく必要がある罪人です。悔い改めるというのは、神様へと向き直っていくことです。私どもが神様に思いを向けて、どうかおゆるしくださいと祈るなら、神様は天使たちと一緒に大いに喜んでくださるのです。

 たとえの中で、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。」(9)という、「一緒に喜んでください」とは、神様の真実な言葉、主イエスの言葉でもあるのです。

 

 たとえに出てくるドラクメ銀貨は、10枚セットなので、一枚欠けても価値が下がると言われます。

 銀貨は当然なことですが、自分では動けないので探してもらう必要があります。そのことは、神様が私どもを探してくださることをたとえています。自分で自分を救うことができない私どもを、神様の方から探して働きかけてくださるので、見つけていただくことができます。私どもに先立って、主なる神のお働きがあるのです。神様、どうかおゆるしください、と祈ることができるのも、神様の働きかけがあるからです。

 

 こうして礼拝に集められたのも、神様が働きかけてくださっているからです。むしろ私どもが知らないところで、神様が働いて導いてくださっていることを信じていきましょう。

 

 主イエス・キリストは、たとえをもって語りかけておられます。私どもに働きかけ、思いにかけておられる神様のことを話されました。二人の息子の話です。太字の表題(聖書の本文ではなく、翻訳者がつけたもの)には伝統的に「放蕩息子のたとえ」とありますが、放蕩息子だけに焦点があるのではありません。放蕩をした弟とその兄の、二人の息子のたとえであるのです。

 弟は、財産を分けてもらったあと、家を出て、財産を無駄使いしてしまいます。豚の食べるえさである、いなご豆を食べたいと思うぐらいに飢えてしまいました。ユダヤ人は豚を食べませんから、おそらくはユダヤ人ではない人々のもとで生きていたのでしょう。その豚のえさでさえも食べたいということは、それほどに落ちぶれてしまったということです。

 そのとき弟は、我に返ってお父さんのもとへ帰ろうと思ったというのです。 

 弟息子としては、もはや息子と呼ばれる資格はないので、雇い人のひとりにでもしてもらおうと思ったのです。弟が我に返った思いは、どこから来たのでしょうか。もはや息子としてではなくても父の家に帰りたい、そんな悔い改める思いが生まれたことは、私どもに先立つ神様の働きを示しています。

 家に近づくと、弟の予想をはるかに超えたことが起こります。遠くから弟を見つけて、父は走り寄って迎えてくれました。悔い改める思いを言い表す弟を、再び息子として、ゆるして迎えてくれたのです。

 

 この父親の姿は、明らかに主なる神、父なる神の姿でもあります。そして父の思いは、たとえを語っている主イエスの思いでもあるのです。

 

 先ほど、このたとえは、二人の息子のたとえだと言いました。弟が帰ってきたときに、兄は父と一緒に喜べませんでした。父の思いにつまずいたのです。父の弟への思い、愛が分かったでしょうが、それだけに、とてつもなく広い愛の心を、兄は受け入れることができなかったのでしょう。

 

 「何年もお父さんに仕えています」と言って、兄は反感を抱きました。「仕えています」という言葉は、奴隷という言葉がもとになっています。考えさせられますが、兄は息子として生きていなかったとも言えます。

 一生懸命に仕えることによって、自分のことを父が認めてくれることに生きていたのでしょうか。そうだとすれば悲しいことです。そのような父だと思い込んできたということです。

 兄は息子として、無条件の父の愛に生きていなかったのではないでしょうか。

 

 このたとえを話されたとき、ファイリサイ派や律法学者といった、兄のようにまじめに、神様に仕えている人たちが聞いていました。彼らは息子として生きていたか、考える必要があったと思われます。

 主イエスはたとえを話されて、ご自身の救いによって、赦し受け入れてくださる神様の愛を信じるように招かれたのです。自分の行いによって神様に正しいとされるには、だれも完全ではないので救いを受けることができない。そのことを知る必要があります。赦された喜びと感謝をもって、主に仕えていくのです。しかも、主なる神の子どもとして生きていくよう招かれています。

 たとえの中の兄のような、ファリサイ派の者たちや律法学者たちがさげすんでいた、徴税人や罪人たちがいました。弟に近いかもしれませ。彼らもまた、本心に立ち返って、神様のもとに来るよう招かれていたのです。神様はいかなる者であっても、悔い改めて主イエスの救いのもとに来る者を救うことがおできになるのです。

 主イエスはたとえをもって、すべての者が悔い改めて救いを受けるように招かれています。私どもを招かれています。主の招きは、このたとえの父のように、理解しがたいほど広く深いものです。私どもを主イエスは、喜んで救いにいれ、神様の愛に生かしてくださいます。私どもの喜びの源は「一緒に喜んでください」と言われる主イエスにあります。私どもを喜んで受け入れてくださる主の喜びが、これからも私ども教会の歩みを生かしていくことを信じていきましょう。

 たとえの中で、この後、兄と弟がどうなったかは書かれていません。兄は父の愛に目覚めて心から喜んで仕えていったと、このたとえは期待しているのではないでしょうか。使われているという思いではなくて、子として働く喜びに生きたでしょう。弟は兄以上に誠心誠意、喜びと感謝のうちに生きていったのではないか。たとえの続きが書かれていないのは、私どもにゆだねられているところがあります。二人の息子のたとえの続きを私どもが生きていきましょう。 



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