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2024年2月25日(日)

受難節第2主日

 

礼拝説教「大きな淵を渡ったお方」 


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 16:19-31  


<讃美歌>

(21)26,10,120,359,65-2,28

 

 ある金持ちとラザロという人が登場するたとえを、主イエスが話されました。たとえを理解するときに、その登場人物のことをまず考えることがあります。金持ちとは誰のことか、ラザロとは誰のことでしょうか。

 ドイツのゲオルク・アイヒホルツという有名な神学者は、この箇所の説教において、主イエスの話に出てくる金持ちとは誰か、と問いかけて次のように語っています。(楠原師訳、「アレテイア」:出版局より)

「この金持ちは、もしかしたらわれわれがなりたいと願う者。十分な金を持つ偉い人。自分が主人であるような人である。もしかしたらまだお金は十分でなくて、まだかなわない望みを持っており、そのために勇敢さと意欲にあふれる人かもしれない。そして自分の人生を思い通りにしたい。人生は中途半端ではいけない。完全でないといけない。そう思っているかもしれない。」

 アイヒホルツは聖句を引用して語ります。

「『神を愛している』と言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネ一4:20)

「このことがこの金持ちには欠けている。兄弟ラザロということが。富を持っているということが何も意味をなさないばかりか、試みになる。ラザロをよけてしまう。ラザロを見過ごしにしてしまう。」そして、アイヒホルツは問います。

「この金持ちは誰だろうか?結局それは、われわれ自身ではないだろうか?」

 彼はまた、ラザロとは誰だろうかと問いかけます。

 金持ちの姿が、私どもの姿を思わしめると同時に、ラザロの姿がまた、私どもの危機的な状況を思い起こさせるのではないかというのです。

 

 ラザロという名前は、ヘブライ語ではエレアザルで「神は助けられる」という意味です。ラザロとは神の助けが必要な人。神の助けがないと生きられない人のこと。ですから、ラザロとは、私どものことでもあるのです。

 主イエスがたとえを話されるときには、神の愛によって語りかけられます。そのたとえには、私どものことが語りかけられているのです。主イエスのたとえによって私どもは照らし出され、ある意味で裁かれますが、それは神の愛による招きでもあるのです。闇が照らされるときに、その闇が光に変えられるように、主イエスのたとえは、私どもを照らして、光へと導いてくださるのです。

 

 ラザロのことを「貧しい人」と記していますが、「貧しい人」と訳される言葉は、旧約聖書によく出てきます。経済的に貧しいという意味だけではなくて、むしろ神の助けを必要としている人のこと、まさにラザロです。自分で自分を救うことができないことを知っている人、神の助けをどうしても必要とする人のことです。ですから私どもはラザロであり、神の御前に貧しい人であるのではないでしょうか。

 主イエスはこの箇所のたとえで、死後の世界のことを用いておられますが、恐がらせようとなさったのではないのです。むしろ、福音を語りかけておられます。

 主イエスがたとえを話されるとき、その話の結論を引き受けておられます。金持ちとラザロの話の続きを、主イエスが引き受けておられるのです。どういうことでしょうか。加藤常昭先生が、この箇所の説教の中で、次のような意味のことを語っています。

「主イエスご自身はよみがえられた。26節にあるような『大きな淵』も、今はもうありません。大きな淵に渡される十字架という橋ができ、主イエスはよみがえられた。私どもはもう滅びを恐れる必要はありません。」

 

 主イエスは、滅びをここで語っておられるようでありながら、滅びの淵を自ら埋めて、その大きな淵を渡ってくださったことを、福音として語りかけておられるのです。

 「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」とアブラハムは語ります。

 信仰の父とされるアブラハムを超えて、主イエスは語りかけ、招いておられます。信仰の父、アブラハムでさえどうすることもできなかった、大きな淵にわたしは橋を架けて渡り、なくしてしまった。だから死に際しても、またいかなるときも滅びるのではなく、救いに入るようにと、主イエスは招いておられるのです。

 主イエスは神のもとに来るのに、遅すぎる、手遅れということはないと、招いてくださるのです。

 

 いつかは洗礼をと、考えて始めておられる方があるかもしれません。先日も、信仰告白の日が与えられるように祈っていますよ、と声をかけました。洗礼を受けるということは、もはや滅びることなく、大きな淵に主イエスが橋渡しをしてくださった、その十字架の救いを生きていくことです。

 先ほど、主イエスは神のもとに来るのに、遅すたり、手遅れということはない、と招いてくださっていると言いました。主イエスがこのたとえの金持ちのような、取り返しのつかない罪の報いを、私どもに代わって十字架の上で受けてくださったことを信じて伝えていきましょう。礼拝こそが、主の福音を世に伝えていく伝道のときでもあるのです。

 ラザロという名前の意味を学びました。「神が助けてくださる」という意味です。私どもは神の助けを必要とする者として、「神が助けてくださる」ことを信じて共に祈ってまいりましょう。神の愛に仕えて、隣人を愛し、主なる神を愛する者として生きていきたいと祈りつとめていきましょう。



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