【受難節第1主日】
礼拝説教「神はご存じである」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 16:14-18
<讃美歌>
(21)26,9,208,370,65-2,28
聖書の言葉を聞き取っていくときに、前後の流れ、文脈はとても大切です。中心的なテーマがつながっていることを読み取っていく必要があります。今日の個所には、15章からの「悔い改め」のテーマが続いています。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)改めてお話しすると、「悔い改める必要のない…正しい人」は果たしているのでしょうか。むしろ主イエスは、「悔い改める必要のない…正しい人」と思い込んでいる人々を照らして、あなたは「悔い改める必要のない…正しい人」ですか、と問いかけておられるのです。
考えてみれば私どもは、日々に悔い改めつつ生きている者ではないでしょうか。キリスト者は、罪を赦された罪人です。日々に祈って罪を赦され、思いと行いを改めつつ生きている者です。何より礼拝において、罪の赦しを受けとりなおして帰っていく者たちです。そして、自分が赦されたように、人を赦すことができるように祈りつとめていくのです。
悔い改めは、自らと向き合って罪を悔い、悪しき思いと行いから離れていくことです。しかしそのために、まず主なる神を見上げていくことが必要です。聖書の言う悔い改めの意味は、方向転換するということです。神へと向き直って方向転換するのです。神へと向き直っていく中でこそ、具体的な、悪から離れる悔い改めの歩みが生まれるからです。
教会の暦では、レントと言って、イースターに備える日々を過ごしています。先週の水曜日2月14日からイースターの前日3月30日まで続きます。この期間には、悔い改めの祈りと節制を心がけていく伝統があります。私事ですが、先週の水曜日にはちょうど用事があって出かけました。その際に、今日からレントだと思って、ひと駅ほど電車に乗らずに歩きました。その電車代を献げることにしましたが、それは何か心に励ましが与えられることです。昔から克己献金と言って、節制した分を喜んで献げる習慣があります。ある人は、甘いものを食べ過ぎてしまうので、この期間に控えたものを献金されたそうです。あくまで自主的に、喜んで行うことが大切です。そのことを通して、実際に悔い改めの祈りをささげる助けになっていくのです。
この朝与えられています箇所は、神へと向き直る思いすらない者たちに、主イエスが向き合い、悔い改めへと導こうとして語りかけておられます。主イエスのそのような思いに触れ、私どももまた、レントの期間に、主へと向き直る思いを深めてまいりましょう。
ファリサイ派の者たちが、鼻でせせら笑うようにして、主イエスを「あざ笑った」(14)とあります。何に対してかというと、ひとつには直前の箇所で主イエスが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(13)と言われた、そのことをあざ笑って受け入れなかったのです。主イエスが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われた言葉に、私どもも、すぐに納得しているでしょうか。
もちろん、ふさわしく富を用いて、神に感謝して生きることは、主に喜ばれることです。しかし、富に仕えるというのは、お金に支配されて生きるということです。お金を用いるのではなくて、お金のために生きて、富に自分が使われていくということです。そのことを主なる神が望んでおられないのは、わかるのではないでしょうか。
しかし私どもは、立ち止まって考える必要があります。お金に執着していたファリサイ派の者たちを笑うことはできないように思います。私どももどこかで、お金に頼って、富を頼みとして生きて、主にのみ頼り生きているのかふり返る必要があるからです。教会の歩みにおいてもそうですが、主にのみ頼り生きて行こうとするときに、必要を主が満たしてくださらないはずはないのです。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と厳しく語られた主イエスは、主なる神にのみ仕えるようにと招いてくださっています。神の愛をもって招いておられるのです。
愛をもって主イエスが招いておられることは、「そこで、イエスは言われた。」(15)というところにあらわれています。何気なく読み過ごしてしまうかもしれませんが、聞きもらせない大切な一節です。
私どもは、心を込めて語りかけ、真実を語り尽くしたようなときに、そこであざ笑う人たちを、なお受けとめることができるでしょうか。私なら、おそらくその時点で会話が終わってしまうのではと思います。
しかし主イエスは、あざ笑う者たちを受けとめ、なおも愛をもって語りかけ、招いていかれたのです。主イエスはここで、ファリサイ派の者たちに語りかけておられますが、彼らが人間的に自分を正しい者と見なすところから救い出して、神から与えられる救いを、信仰によって受け取る道に生かそうとされているのです。
「そこでイエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。』」(15)考えさせられますが。私どもがともすれば自らの正しさを主張し、自分を正しいところにおいて人を非難することは、神様から見れば「自分の正しさを見せびらかす」ことになっているではないだろうか。
教会は、自分の正しさを見せびらかすように主張し合うことの、反対を歩めますようにと祈っていく共同体ではないでしょうか。互いを認め合って補い合う、そのような主の愛に支えられた私どもであるように祈っていきましょう。
牧師として、いろんな相談を受けますが、至らなかったことを告白されたりすることは、大きな励ましを受けて、自分はどうだろうかという謙遜な思いが与えられます。
さて、主イエスによって離婚のことが語られています。これは当時の背景をお話する必要があります。当時、男性の側からの身勝手な思いで妻を追い出して別の女性を迎えることがまかり通っていたようです。ある意味で、そのことが正しいこととして通用していたわけです。身勝手な正しさを、主イエスは嘆いておられます。(18)
結婚には神の働きがあって二人が結ばれたという信仰を、見失ってはならないのです。
さて、あざ笑う者にも、主イエスは愛をもって語られたと言いました。実は、「あざ笑った」という言葉は、この福音書で、ここともう一箇所にしか出てこないのです。もう一箇所は、十字架の場面での人々の姿です。
「あざ笑って言った『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」(23:35)
先ほどレントは、イースターに備えるときだと言いました。イースターは、主イエスが十字架に命をささげられたあと、復活されたことを祝います。復活を祝うことは、当然のことですが、主の十字架の尊い犠牲を深く感謝することとひとつのことです。
人々は主の十字架に際して、「あざ笑って言った『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」
教会が信じてきたことは、主イエスが十字架からおりて御自分を救われなかったのは、私どものためだということです。私どもの受けるべき神のさばきを代わりに受けてくださった。それゆえに、私どもが罪を赦されて救われる道がひらかれたのです。
主イエスはあざ笑う者たちを前に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)と祈られました。
その祈りを主イエスは、この箇所においても持っておられるのです。あざ笑う者にさえ祈りをもって語りかけられる主イエスの愛へと向き直り、私どもも主の愛に立ち続けていきましょう。
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