【降誕節第2主日】
礼拝説教「へりくだる者」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 14:1-14
<讃美歌>
(21)26,1,367,274,65-2,29
1月1日に、能登半島地震が起こり、大きな痛みの中にあります。主なる神様が、慰めをもって支えてくださるようにお祈りいたします。
何か大きな苦難を受けたり、重い病にかかったりすると、悪いことをしたからではないかという、因果応報の考えを抱かれた方もあると思います。当時も、病気であることは罪のゆえであるという偏見があったようです。聖書は、因果応報を否定しています。 主イエスは、水腫の人の苦しみに寄り添い、その同じところに立って招かれました。
「イエスの前に」いたとされるこの人はまた、主イエスがこの人の立っているところに一緒にいてくださることを経験したのです。彼は主イエスのそのような神の愛の中に立つ経験、神の愛の中にいる経験をしました。
主イエスは、私どもと共に、私どものところにまで来て、共にいてくださるのです。7節からの話は、重い病気をいやしてもらった人の話とどうつながるのでしょうか。昔から教会では、1節から14節までを通して学んできました。二つの話を結びつけるのは、「お返しできない人」というのが、ひとつのカギになります。神の招き、救いに「お返しできない人」とは誰のことでしょうか。
主イエスは、たとえを話されました。不自由さを持ち、招かれてもお返しできない人とは、私どものことでもあるのではないでしょうか。
私どもは神の御前には、それぞれ欠けがあり、誰一人十分な者はおらず、不自由さをもつ罪人であることを思わされます。
私どもは神様からよくしていただき、それを感謝して生きるように導かれています。感謝する、というのは、旧約聖書では元々、神様がよくしてくださったことを告白する、という意味合いがあります。
神様がよくしてくださったことは、救いであり、それは罪の赦し、いやし、恵みをいただくことです。いやしは、病気だけでなく、罪というもっとも人には処しがたい病から救われていくこともそうです。
私どもは、主イエスの救いに感謝することはできても、その救いにお返しして報いることができるのでしょうか。とてもお返しなど到底できない救いをいただいていることがわかっているでしょうか。
お返しなどできない救いを受けて、ひたすら感謝し、主に仕えて生きるほかないのです。そのように主に応答してお仕えすることも、恵みであります。
あるいは、主ははじめから、私どものお返しなど期待してはおられず、よきものを与えようと待っていてくださるのです。
たとえの中で、宴会に招かれた人々が、選ばれる理由を自らの中に何ら見いだせないように、私どもも主に招かれて、よくしていただく理由を自分の中に見つけることができない。それが主イエスの招き、神の愛であります。食卓に招かれた水腫の人もそうであったのです。
主イエスは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(11)と語りかけられました。
ここで主イエスが言われたことは、もちろん、高められるために自分を偽るように、へりくだるふりをするのではないのです。
「へりくだる者」とは、低きにひざまずく者、神の御前に、自らのあるべきところを知る者です。自分には神から招かれる理由がないことを知る者であり、招かれたのは全く神の愛により、恵みによるほかないことを信じる者です。
神の御前に立つときに、私どもはだれひとり堂々と立てない者ではないでしょうか。すべてを知り、すべてを審くことのできるお方の前に、堂々と立てる人がいるでしょうか。
主の御前には、私どもは低きにひざまずく以外にないのです。
しかし、主の御前に私どもがひざまずくべき、その低きところに、共に主イエスがおられることを、私どもは知り続けていくのです。
いやむしろ、私どもの誰も、神の審きの前に、立ち続けられない低きところに、私どもに代わって主イエスが立ち、審きを受けて、救いの道をひらいてくださったことを知り続けていくのです。
そのように、自らがどのような者であるかを知り、主イエスが何をしてくださったかを感謝して主を信じて見上げる喜びは、大きな恵みであり、それこそが高められることです。
ともすれば高慢な思いをいだいて高ぶる私どもに、主は働きかけてくださいます。へりくだりへと導き、どんなによくしていただいたか、いかに赦されているか、感謝して主を見上げる喜びに満たしてくださるのです。
主の働きかけによって、へりくだる者となり続けて、感謝して主を見上げる喜びに生きていきましょう。
Kommentare