【降誕節第5主日】
礼拝説教「大きな喜びが天に」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 15:1-7
<讃美歌>
(21)26,18,120,359,65-2,29
与えられています箇所で、主イエスはたとえを話されています。100匹の羊の内、1匹を見失ったときに、何としてでも探そうとする羊飼いの姿があります。当時の羊飼いは、100匹の羊のうち、1匹を見失っても、仕方がないとは決して思わなかったでしょう。必死で探すであろうことは、人々の常識であったはずです。なおさら主なる神は、失われた存在を、主なる神とつながっていない存在を探し求めておられるのです。羊飼いにたとえられているのは、語っておられる主イエス・キリストのこと、主なる神の姿であるのです。ルカは、自分たちへの語りかけとして記しました。それは、この福音書を聞く人々への神の御言葉として伝えました。私どもへの語りかけでもあると信じて思いを深めていきましょう。
おそらく当時の人々が羊飼いの話を聞くと、思い起こしたであろう、旧約聖書の言葉があります。エゼキエル書34章で、主なる神が自らを羊飼いとして語りかけておられます。11-12節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探し出すように、わたしは自分の羊を探す。」
旧約の民が羊の群れとして、ちりぢりになっているとは、どういうことでしょうか。国が滅んでしまってバビロン捕囚を経験したことかもしれません。エゼキエル書には、当時の指導者を「牧者」と呼んで、彼らへの厳しい言葉があります。「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。」(8-10)もしかしたら、主イエスはこの言葉を思い起こしながら、今日のたとえを話されていたかもしれません。
当時、ファリサイ派の人々や律法学者たち(2)は指導的な立場にいました。しかし彼らは「牧者」として、主の御心に適っていたとは言えなかったでしょう。彼らがさげすみ、神から見放されていると思い込んでいた人々がいたのです。罪人、徴税人と呼ばれた人々がそうです。
罪人とは、犯罪人という意味ではなくて(それも含みますが)、同時の指導者たちが定めた細かな600余りの掟を守ることができない人たちのことです。徴税人は、「収税請負人」のことで、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていたのですが、そのローマに収める税金を収税する人たちのことです。彼らは、その収税の権利を入札で手に入れていたのですが、入札額以上は自分の利益になるわけですから、同胞から忌み嫌われていたのです。
しかし主イエスは彼らと食事を共にされました。食事をいっしょにすることは、相手を受け入れているしるし、友情のしるしでした。主イエスは救いを伝えて、分け隔てなく彼らをも招かれた。悔い改めて罪赦され、救いを受けるようにと招かれたのです。
悔い改めるというのは、神へと向き直るということです。悔い改めるというと、日本語では悪いことをやめるという意味合いが強いと思います。しかし聖書では、悔い改めると訳される言葉は、向き直る、方向転換するという意味です。神へと向き直って、方向転換するということです。そこでこそ、罪から離れてふさわしい歩みに生きることができるのです。
神様へと向き直るときに、そこには驚くべき交換があります。神様へと向き直って罪を告白して、主なる神に罪を差し出すのですが、主なる神からは赦し、救いの恵みが与えられるのですから、それは驚くべき交換です。
マルティン・ルターは、キリスト者の生涯は、全生涯を通しての悔い改めの生涯と言いました。それは95か条の提題と呼ばれるものの第1条で語られたものです。「私どもの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい…』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」(徳善訳)ルターが語るように、キリスト者こそ、日々に悔い改めつつ生きていく存在です。キリスト者は罪赦された罪人であって、生涯にわたって神へと向き直り続ける悔い改めを必要としているのです。
たとえの中で主イエスは、一人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人にまさる喜びが天にあると言われました。
立ち止まって考えるべきは、悔い改める必要のない人がいるのかどうかです。自分たちは悔い改める必要のない正しい者たちだと、人の基準で自覚していたのがファリサイ派の人々や、律法学者たちだと言われます。しかし、神の御前に自らの言行で正しいと認められるのは、主イエスの他誰もいないのです。
私どもも、自分を正しいところにおいて、相手をさばくようなことはないか、思い返す必要があります。自分では自分のことをわかりきらない私どもですから、主に私どもの歩みを照らしていただく必要があるのではないでしょうか。
主イエスは、大きな喜びが天にある、と言われました。それは、一人の人が悔い改めるときです。神へと向き直って祈るときに、それは祈る人の自覚にはるかにまさって、大きな喜びが天にあるというのです。
私どもが、主よ、どうかおゆるしください、と祈ることは、自分たちが思うよりもはるかにまさって、主なる神が喜ばれることであって天につながっているのです。礼拝をささげて私どもが主に向き直って祈るときに、天において、大きな喜びがおこるのです。
私どもがこうして地上で礼拝を献げることは、天における主のみもとでの礼拝とつながっている、そのことをキリスト教会は信じてきました。
どうか、天に喜びがおこることを信じて、日々に悔い改めつつ、主の赦し、救いを生きてまいりましょう。先ほど読んだエゼキエル書では、民の多くが迷い、主なる神とつながっていない状況でした。ごく少数の預言者たちが御言葉を民に語りかけ、主に仕えていたのです。そしてなかなか結果が見いだせないのです。しかし主が働いておられることを信じて、結果を主にゆだねて歩みぬきました。私どもも、多くの方がまだ主を知らずに生きているのですから、結果は主にゆだねて、礼拝を通して主の御言葉を世に伝え、神様に向き直っていく人が起こされるように祈り励んでいきましょう。
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