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2024年1月21日(日)

降誕節第4主日

 

礼拝説教「主イエスの弟子となる」


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 14:25-35  


<讃美歌>

(21)26,6,202,513,65-2,29 

 

 人生が旅にたとえられることがあります。地上での歩みがずっといつまでも続くわけではないことを私どもは知っています。いつかは地上を去るときが来ることを、どこまで意識しているかは別としても、私どもは地上の旅路の終わりに向かって歩んでいます。

 今日与えられています箇所は、主イエスが「一緒について来た」(25)「大勢の群衆」に向かって語りかけられておられます。「一緒に旅をしていた」(岩隈訳)と訳している聖書もありますから、彼らは一時的について行っていたわけではないでしょう。主イエスは彼らに、弟子としてついて来る、一緒に旅をすることを求められました。主イエスの弟子となるとは、どういうことでしょうか。


 ある神学者は、「弟子となって主イエスに従うことと、罪から救われることは同義である。」と語りました。

 罪という言葉は聖書では元々、的(まと)をはずしている、ずれているという意味です。ずれているのは、神様とずれていて、その聖なる命、御心とつながっていないということです。

 罪の本質は、自己中心だと言うことができるかもしれません。自分を中心に生きていくことから、主イエスを救い主と信じて、主なる神を中心に生きていくことが救いだと言うことができます。罪から救われることは、弟子となって主イエスに従うことです。信じて救われることと、弟子となって従うことは、車の両輪のように、ひとつのことです。救われて主の聖なる命とつながるなら、その命の本質である愛に動かされていかないはずがない、それは主の愛に動かされて、主に従ってついていくことになるのです。


 日本基督教団信仰告白に、「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」とあります。

 主イエス・キリストの弟子となることは、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員になることです。そのような教会は、何かの条件を満たした者たちの集まりではなく、主イエスによる罪からの救いを信じて、洗礼を授けていただいた者たちの「恵みにより召されたる者たちの集い」なのです。「恵みにより」ということは、私どもが信じることに先行する、神様のお働きがあるということです。


 また、「恵みにより召されたる」とありますので、自分が主に召されているかどうか、と思われるかもしれません。しかし、自分が元々召されているかどうか、心配する必要はないのです。教会に来ていること自体が、主に召されているからこそです。そして、主はすべての人を召しておられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」(マタイ28:19)とあるとおりです。

 主イエスの召しが、洗礼によって明らかになり、確かなものとされます。そして洗礼もまた、恵みにより授けられるものです。決心して洗礼を受けるのが通常ですが、私どもに先立って恵みにより導いてくださることに、身をゆだねて授けていただくのが洗礼です。


 恵みに身をゆだねていくことは大切なことですが、何もしないことではなく、むしろ、恵みのもとで主体的に生きていくいことも生まれてくるのです。主イエス・キリストは、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(27)と語りかけられました。自分の十字架を背負う、とはどういうことでしょうか。


 マルティン・ルターは、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」と招いてくださる主イエスの御言葉について、こんなことを語りました。自分の十字架はどこにあるのか、と探す必要はない、主イエス・キリストの愛に生きて、自分を愛するように隣人を愛し、主を愛して生きるときに、すでにその人は十字架を負って主に従っている。

キリストの愛を信じて、主の愛に動かされて生きようとすることは、不十分であっても、私どものうちにすでに始まっていることではないでしょうか。むしろ、主なる神が、愛をもってすでに私どものうちに働きかけてくださっていることに、もっと気づいていく必要があるのです。

主イエス・キリストが愛の労苦に生きられたように、私どもも愛の労苦に生きようとするときに、すでに十字架を負って主に従っており、そこで主イエスに出会うことになります。主は私どものために、絶えず愛の労苦を負ってくださっています。それは本来私どもが担うべきものを、代わりに追ってくださっているということです。


主イエスとの愛の結びつきが、愛の労苦に生きて祈り続ける力を与えるのです。愛の労苦の建物というべきものを主イエスと共に建て上げ、その戦いに勝利をもたらすのは、キリストの体に結ばれて、主イエスの思い、そのご愛に動かされるからです。教会は、キリストの愛に動かされる、愛の労苦の建物ではないでしょうか。


さてカルヴァンは、今日の個所について、次のようなことを語りました。

「所有するものをすべて海に投げ捨て、妻と離婚し、子どもを捨てなければ誰もキリストの弟子ではないかのごとく、文字通りに解釈するのは愚かだ。」

「彼ら自身の命とか肉体のあらゆる欲求よりもキリストを強く愛している人は『ことごとく捨てきっている』と言われていることを悟らなければならない。」

 先ほど、人生が旅にたとえられることがある、と言いました。人生の旅路には、必要なものが様々にあります。それらの必要に勝って、主イエス・キリストの導きこそが必要であることを、どれほどに心に刻んでいるでしょうか。主イエスの愛の働きが、あらゆるものに勝って私どもに、人に必要であることを信じて祈り求めていきましょう。


 主は私どもが捨てる行為そのものよりも、主を愛して従っていくことを問うておられるのです。そのことは、塩として生きることでもあります。

 塩は、自分に味をつけるのではなく、自らを溶かして周りに味をつけます。塩のそのような働きは、主イエスの働きを思い起こします。主は自らの命をささげて救いをもたらし、愛という味付けをしてくださいました。

 主イエスの愛を見失ったら、塩味を無くした塩のようになるのではないでしょうか。主イエスを愛して、神の愛に動かされて、神と人とに仕えていくことは、塩として生きる幸いがあることを信じていきましょう。



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