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2024年1月14日(日)

降誕節第3主日

 

礼拝説教「神の招きに応えよう」    


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 14:15-24 


<讃美歌>

(21)26,2,156,394,65-2,29 

 

 今日与えられています箇所は、食事を主イエスと共にしていた客の一人の言葉で始っています。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(15)神の国の食事と聞いて、私どもはどう考えるでしょうか。神の国での食事は、神に招かれた食事と言うことができるでしょう。自分はふさわしくないと考えて、立派な人たちがまず招かれると思うでしょうか。しかし、主イエスは直前の箇所で、お返しのできない人たちを招くように言われました。そうすると「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言ったその人は、自分もまた神にお返しできない人と考えたのでしょうか。そうであるするなら、その喜びを主イエスは受けとめてくださったと思います。しかし、よくわかっていなかったところがあったのではないか。語りかけて、よくわかっていないところを照らしていかれました。私どもも、主イエスの語りかけに思いを深めていきましょう。

 主イエスはここで、あるたとえを話されました。神の招きについて言われているのは明らかなのですが、実はある神学者によれば、当時この場で聞いていた者たちは、皆がよく知っている話を思い浮かべながら聞いていたかもしれないというのです。

 ユダヤのある有名な律法学者と徴税人(取税人)がいたのだけれども、ふたりとも同じときになくなって葬儀が執り行われた。徴税人というのは、ユダヤを当時支配していたローマ帝国に仕えて税を徴収していたのですから、ユダヤ人から嫌われていました。しかし、同時期に行われた葬儀で、嫌われていたはずの徴税人の葬儀は人であふれたけれども、尊敬されていたはずの有名な律法学者のところにはあまり人が集まらなかった。その背景には、こんなことがあったそうです。

 ある徴税人は、なくなる前に盛大な宴会を計画した。やがて当日準備が整ったので、しもべを遣わして「おいでください」と迎えに行かせた。すると皆が一様に断り始めたというのです。それは先ほどお話ししたように、ローマ帝国の僕となっていたことや、不当に高い税を徴収することが普通に行われていたことに理由があると思われます。

 腹を立てた徴税人は、誰でもいいから連れて来い、としもべに命じました。もともと招いていなかった「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れてきなさい」といった具合に、連れて来させた。それでも席が埋まらないので、さらに誰でもいいからと、通りや小道でユダヤ人ではない人々も連れて来て、宴会の席をいっぱいにした。葬儀のときには、そのときのことがあって、町中こぞって出席したというわけです。

 

 主イエス・キリストのたとえを聞いていた人たちは、おそらく思い出したであろうというのです。そうだとすれば、主イエスがここで、少し乱暴にも思える主人の話をたとえに用いておられるのは理解できる思いがします。

 

 「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」は当時、食事の席には招待されなかった。神の恵みからは遠い存在、と思い込まれていた。明らかな偏見や差別の現実です。

 「通りや小道」から連れてくる人は、ユダヤ人ではない人のことです。異邦人と言われる、神の恵みの外にいると見なされていた人たちです。 

 主イエスはたとえによって、当時の人々の思いをついておられます。そのふさわしくないところを照らし出しておられるのです。主イエスは、当時のあきらかな偏見や差別の姿、罪の現実から語りはじめて、むしろそこに救いの道をひらいていこうとされているのです。

 主イエスはここで何を語りかけておられるのでしょうか。

 ご自身の招き、神の招きにおいて、分け隔てがないことを語っておられるのです。すべての者が招かれているのです。しかし同時に、その神の招きをふさわしく受け取る用意をするように戒めておられます。どういうことでしょうか。

 

 このたとえを主イエスがお語りになったのは、ある人が主イエスに「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう。」と語ったことがはじまりです。この人はひとつの理解では、神の国への招きに自信を持っているように思われます。食事の客人の一人ということは、当時の社会でりっぱな経歴を持った、招かれるべき客の一人です。そうだとすれば、そのとき招かれた食卓同様に、神の国での食事に自分は席を確保してもらっていると思ったかもしれません。この人の思いの実際のところはわかりません。むしろ、私どもが問われているのです。

 本来、神様は、招かれる資格がない、いさおのない者を神の愛をもって招いてくださっていることを、どこまで知って心に受けとめているかということです。

 招かれる理由のないものを招いてくださるのは、神の恵みと言います。恩寵と言ってもいいのです。私どもは、招かれる理由などどこにもないと頭ではわかっていても、どこか心の片隅に招かれる理由をもっていることがあります。その方が人には理解しやすいからです。しかし主イエスは直前の11節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。自分には招かれる理由があると、まちがった自信を抱いて、恵みからずれていくことがないように、祈り求めていく必要があるのです。

 

 主イエスのたとえは、私どもへの語りかけです。

 たとえの中で、招きを断っている人々の理由に注目してみたい。

 ある人は「畑を買ったから。」ある人は「牛を2頭ずつ5組買ったから。」またある人は「妻を迎えたばかりだから。」みなさんもすでにわかっておられると思いますが、ここにある断りの理由は 、招きを断る理由としては、最もふさわしいものです。

 日常のことではなく、「畑を買ったから」「牛を2頭ずつ5組買ったから」というのは、その人の生涯の中で、最大の買い物をした、と言ってもいいほどのことです。一大事業を手がけていると言ってもいいのです。あるいは、「妻を迎えたばかり」というのは、新婚ということですが、その当時は、新婚の兵士は、兵役を免れたそうです。 しかしそのような最良の理由であっても、そのほかどんなことがあっても、神の招きを断る理由には決してならないのです。

 たとえで主イエスが言おうとされているのは、畑や牛や連れ合いを捨てるように言われているのではないはずです。その人の人生でもっとも喜ばしいことに支配されることよりも、神の恵み、神の招きに導かれて、神に感謝して生きるようにと招かれているのではないでしょうか。

 

 人の営みのすべてに優先して、神の招きを受けるように、神の招きに応えるようにと語りかけられている。それほどに、主イエス・キリストの招きは尊いものです。命をささげて招いてくださった、主イエス・キリストの招きに、私どもも喜びをもって「なんと幸いなことでしょう」と、主に従っていきましょう。



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