2024年12月22日(日)クリスマス礼拝
- shirasagichurch
- 2024年12月22日
- 読了時間: 5分
【待降節第4主日】
礼拝説教「神は共におられる」
願念 望 牧師
<聖書>
イザヤ書7:10-14
<讃美歌>
(21)26,231,260,81,271,65-1,29
喜ばしい、クリスマス礼拝を共にささげています。
この年は、感謝なことに受洗志願者も与えられています。その方の受洗準備でお話ししたことですが、洗礼を授けられることは、入学式に似ていますが、学校とは違って卒業、終わりはありません。また学校の入学のときは、試験に合格する必要がありますが、洗礼はすべての人に受ける機会が与えられています。だれも洗礼にふさわしい人はいませんが、主イエスを救い主と信じるなら、だれでも受洗することができます。もちろん何回か受洗準備をして備えますが、ひとつ重要なことは、この先、主イエスを信じてずーっと生きていきたい願いがあるかということです。主イエスを、私どもの罪を赦して共に生きてくださる救い主と信じていきたい願いは、私どもが願う願いですが、隠れたところで神様が与えてくださる、信仰の思いでもあります。
今日与えられています箇所に、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマスエルと呼ぶ。」(14)とあります。これは、救い主の預言の言葉です。「インマヌエル」というのは、聖書に意味が書いてあります。マタイによる福音書1章23節に「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と記されているように、「神は我々と共におられる」というのが、救い主の名でもあるのです。
実際に「神は我々と共におられる」という、イザヤ書で最初にインマヌエルの預言がなされたときの状況は、どのようなものだったのでしょうか。当時の状況は、私どもとは時代も場所も全く違いますが、人の歩みとしては変わらず、同じようなところがあるのではないでしょうか。
アハズ王が、北イスラエル王国を治めていましたが、国の将来を考えると追い込まれていたようです。アッシリア帝国が当時栄えていて、その帝国の支配下について降伏しないと、滅ぼされてもおかしくない状況だったようです。しかし、支配下に収まれば、異教の習慣、特に偶像礼拝が取り込まれますし、信仰の根幹を失って、信仰共同体の中身が崩壊してくことになるのです。それは、国が失われることに相当します。しかし、降伏しないで、武力によらずに、ひたすらに主なる神に頼るならば、果たして主は助けてくださるのか、アハズ王にはそのような信仰がなかったのです。
そのことが、今日の箇所によく表れています。主なる神は、アハズ王に「しるしを求めよ」と問いかけます。これは、信仰の決断をしていくようにという導きでもあります。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に。」(11)「深く陰府(よみ)の方に」とある陰府は、当時、死の世界、神の導きの外と考えられていました。ここでは、「陰府の方に」というのは、アッシリア帝国に助けを求めてその支配下につくことを意味します。そして、「あるいは高く天の方に」というのは、主なる神にひたすら頼り、助けを求めていくということです。軍事力、武力に頼らず、主に祈って、導きを求めていくことですが、アハズ王はどう決断したでしょうか。
「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」(12)と、アハズ王は答えています。確かに主を試すことはよくないことですが、アハズ王の答えが実際に意味することは、どちらにも頼らないことを意味します。13節にあるように「もどかしい」答えです。どちらにも頼らないとうことは結局、主なる神にのみ頼ることをしないということです。では何に頼るかといれば、結局、力に頼り、アッシリア帝国とは別の国々に助けを求めたのですが、結果、北イスラエルは滅んで、信仰共同体が崩壊することになってしまうのです。
かつて、イザヤが主なる神から聞いて、アハズ王と人々に語りかけた御言葉は、今もなお、語りかけられています。クリスマスの最も有名な御言葉の一つとなっています。それは、主イエス・キリストを通して実現したということです。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマスエルと呼ぶ。」
アハズ王の時代に、将来に不安をおぼえて、武力や財力に頼り、主に祈って助けをもとめていくことを忘れたことは、いつの時代にもあることではないでしょうか。しかし、武力や財力には限りがあり、終わりがあります。
それに対して、「インマヌエル」、神が我々と共におられることは終わりがありません。インマヌエルの恵みは、どんな財力によっても、武力によっても勝ち取ることはできないものです。ただ、神の愛によって与えられる救いです。さらには、神の愛によって与えられる救いをもたらそうと、天の主なる神が私どものような者と喜んで共に生きてくださることは、どんな武力によっても、いかなる人の力によっても、滅ぼすことはできないのです。
マタイによる福音書は、かつてイザヤが預言したことは、主イエス・キリストによって成就したことを伝えました。 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(1:23)この御言葉の約束の通りに、神は我々と共におられるのです。神は、我々信じる者たちと共に生きて、私どもと世を導いてくださるのです。
洗礼を受けて、主イエスを信じてこの先ずーっと生きていきたい、その願いを、すでに洗礼を受けた者も、このクリスマスに改めて深く願おうではありませんか。その先ずーっと、神の愛はいかなるものよっても滅ぼされることなく続いていくことを信じていきましょう。

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