2024年11月3日(日)召天者記念日礼拝
- shirasagichurch
- 2024年11月3日
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【降誕前第8主日】
礼拝説教 「ここは天の門」
願念 望 牧師
<聖書>
創世記 28:16-17
<讃美歌>
(21)26,382,385,451,65-1,27
礼拝は、最後に祝福をもって送り出されます。
そのことはまた、やがての日に、主なる神が私どもを、祝福をもって天へと送り出してくださることを表しています。祝福をもって天へと送り出された先達たちの足跡に、私どもも倣っていきたいと願います。
主なる神の祝福は、どういうものでしょうか。神の祝福は、何かをした褒美に受け取るものではなくて、ただ信仰をもって受けとるものです。違う言い方をすれば、どんなに努力しても、あるいは良いことをしても、その報いとしていただくものではなくて、ただ一方的な神の愛によって与えられるものであって、信じて、感謝して受け取るほかないのです。
そのような祝福の中身は、ひとつには、神からの恵みと平安と言うことができます。
聖書が語る恵み、また平安は、もともと特別な意味あいをもっています。日本語の恵みや平安では言い表せないところがあります。
恵みは、神から与えられなければ得ることができないものです。私どもに受け取る資格がないのに、神が愛をもって与えてくださるよきものです。主イエスの救いがまさにそうです。主イエスが十字架に私どもに代わって神の審きを受けてくださった。そのことを信仰をもって受けとるときに、主なる神は私どものすべてを罪赦して御自分の子としてお救いくださるのです。信仰もまた神から与えられるものです。信仰もまた神からの恵みです。私どもは信仰を抱いて天に召された多くの先達に恵まれています。その足跡にならって神の恵みに生かされていきましょう。
この召天者記念日礼拝では、地上ではっきりと信仰を言いあらわすことなく召された、私どもの家族をも、共に祈りにおぼえながら礼拝を献げています。
キリスト教会では、主イエスが、陰府にまでくだられたことを信じて告白します。陰府というのは、神の働きも、そこにはもう届かないと考えられていたところです。しかし主イエスは、陰府にまでくだられた。十字架に死なれて、陰府にまでくだり、そして三日目に復活されていまもなお、救い主として生きてくださっています。聖書が伝えていることは、主イエスは、かつて神の僕の言うことを受け入れずに死んでいった者たちのところへと(陰府へと)行かれて宣教された、救いを宣べ伝えられた、恵みを与えていかれたのです。
ですから、私どもの力のおよばないところに行かれた方たちをも、主にゆだねて祈ることができるのです。希望をもって、信仰を抱いて祈ることができる、神の恵みは私どもの思いをはるかに超えて広く、また深く届くのです。人の手の届かないところにも届くのです。
祝福の中身は、ひとつの言いあらわし方として、神の恵みと平安と言いました。
平安と訳される言葉は、元々はシャロームという旧約聖書の言葉です。礼拝の祝福で、シャロームがあるように、平安があるように、と送り出されます。
シャロームはどういう意味でしょうか。人は罪深く、欠けがあり、弱さがあります。言葉と行いにおいて罪を犯して、神の御心を悲しませる者です。しかしそのような私どものすべてにおいて、欠けを補い満たしてくださるのが神のシャロームです。私どもの身も心も魂も、社会的な状況においても、すべてにおいて、欠けを補い満たしてくださるのが神のシャロームです。
聖書に、有名なヤコブという人の生涯が記されています。
ヤコブはあるとき父のイサクから祝福されて、家から送り出されます。ヤコブの母リベカの故郷へと旅立つのです。どうもヤコブは、受けた祝福が、どれほど得がたいものか、よく分かっていなかったと思われます。
私どもはどうでしょうか。祝福を受けてここから送り出されます。今週、思いがけないことが起こったり、病気になったりすると、私には祝福が届かなかったと思うでしょうか。もちろん、そのように思う必要はないのです。祝福というのは、どのようなことが起ころうとも、神が共におられて、私どもをシャローム(平安)で満たし恵みに生かしてくださるということです。
さてヤコブは、どうして自分の家を離れるようになったかといいますと。自分の蒔いたものを刈り取っていることになります。ヤコブはあるとき、豆を煮たご馳走をつくっていたのですが、そこにお腹をすかせた兄が帰ってきてそれを食べさせてほしいと懇願します。ヤコブは、食べさせてあげてもかまわないけれども、その代わりに長子の権利を弟の私にくださいと言った。とにかく食べたかった兄は、深く考えずに、ヤコブの提案を受け入れて、ご馳走を食べてしまったのです。どちらにも問題があります。
やがてヤコブは、父イサクから長子の祝福を受けて父の財産を受け継ぎます。
しかし兄は怒って弟のヤコブを殺そうと考えました。母リベカは知恵を働かせて、結婚相手を探すために、母リベカの故郷へと旅立たせるのです。
ヤコブにとっては、思いがけないこと、予定していない旅でした。はじめて慣れ親しんだ父母のいる場所を離れたヤコブは、不安と恐れでいっぱいだったでしょう。
旅の途中で野宿したヤコブは、幻をみるのです。野宿する姿には、闇と心の中の希望を失った暗さが重なりますし、石を枕にすることは、あるべきところに落ち着いていない、本来、来るべきではない旅の途中の姿とまた重なります。しかし、そのようなとき、主なる神の働きかけがありました。まさにそれは一方的な神の愛による恵みであり、欠けを満たそうとする神の働き、シャローム、平安です。
天からハシゴのようなものが降りてきて、天使と共に主なる神が、ヤコブのところに来られたのです。それはまったく思いうかべることもできないことでした。
まさか、父のもとを離れて野宿する自分と共に、主がおられるとは夢にも思わなかったのです。ヤコブは神の祝福を受けました。神の祝福の語りかけを聞いたのです。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。・・・わたしは、・・・決して見捨てない。」
ヤコブは幻を見たあと、告白しました。「ここは天の門だ」と言いあらわしたのです。主なる神のおられる天と自分のいる地とが、ここでつながっているということです。
ヤコブは、神に出会った場所を、ベテル(神の家)と名付けました。天と地のつながるところです。教会もまた、神の家、天の門であります。
いかなる者も、神の恵みと平安を受けることができるのです。主イエスによって罪の赦しを与えられ、欠けを満たしていただくことができるのです。
礼拝は、天と地がつながって、主なる神からの恵みと平安をいただく時です。礼拝は、天の門です。愛する者たちが召された天と地がここでつながっているのです。共に天と地で、主なる神のもと、礼拝を献げているのです。
私どもに恵みと平安を与えてくださる主は、ヤコブを見捨てることなく顧みてくださいました。やがてヤコブは兄エサウと関係を回復して、和解することができたのです。
そして父となったヤコブも、年老いていきました。天に召される日の近い時、杖の先に寄りかかるようにして礼拝を献げ、子どもたち孫たちを祝福したのです。
ヤコブに与えられ、ヤコブが子どもたちに受け渡した祝福を、主イエスが救い主として、教会に与えてくださっています。ヤコブは神から与えられた信仰によって、最後まで、杖の先により寄りかかって礼拝しました。礼拝が天の門だったからです。
私どもも、礼拝の祝福、恵みと平安に、天と地で、共々に生かされているのです。

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