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2024年11月24日(日)収穫感謝 謝恩日

降誕前第5主日

 

礼拝説教 「平和があなたに」       


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書24:36-43


<讃美歌>

(21)26,9,51,320,65-1,27

 

 この朝与えられた箇所は、「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(36)とあります。

 そのときの状況が私どもに起こったとしたらと思い浮かべますと、主イエスが私どものところに来てくださり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださるとは、どんなにかすばらしいことかと思います。

 しかし実際に主イエスの語りかけを聞いた弟子たちは、すぐに喜びがわき起こらなかったのです。「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(37)とあります。うろたえ、心に疑いを起こしました。彼らのことを、不信仰で愚かだということは簡単ですが、私どもの実際の信仰生活はどうでしょうか。不信仰な自分を思って、赦しを祈ったり、祈ることの足らなさを思って、祈りに導かれることがあるのではないでしょうか。

少なくとも主イエスご自身はそのとき、心が鈍い弟子たちのことを退けられなかったのです。つたない弟子たちと共に、主イエスは生きてくださいました。ここにいた弟子たちは、足らない自分たちと共に主イエスが生きてくださる喜びと共に、繰り返し繰り返し話したに違いないのです。主イエスが、一切れの魚を食べてくださったことを、「平和があるように」と祝福してくださった祝福が今もあることを、喜びをもって語り続けたはずです。弟子たちから聞いた教会の者たちも、もう何十回聞いただろうかと思いながら、しかしこれは、自分たちの話だと信じて聞き続けたのです。だからここに記されています。ルカも、自分たちの物語だと信じて記したのです。私どもも、「あなたがたに平和があるように」とこの朝も主イエスが御言葉を語りかけてくださることを信じて、思いを深めましょう。

 「あなたがたに平和があるように。」「平和」と訳されている言葉は、日本語に訳しきれない言葉です。新約聖書はギリシャ語で、エイレネーですが、元々は旧約聖書のシャロームです。シャロームは、私どもの欠けたところを一つ一つ、すべて主なる神が満たして働きかけてくださる、恵みの働きかけを意味します。恵み、救いと言い換えた方が、意味が近くなるかもしれません。もっと言いますと、「シャロームがあるように」とは、神が私どもと共におられることでもあります。

 

 先ほど言いましたように、弟子たちは、主イエスが復活なさって生きておられ、共にいてくださることを、すぐに信じることができず、うろたえたのです。受けとめきれませんでした。

 このことは、エマオへの途上、道すがら、主イエスとは分からずに会話をしていた二人の弟子の姿と重なります。自分たちの力では信じることができないのです。

 主を信じる信仰の確かさというものは、いつも私どもの側にはなく、信仰を与えてくださる主なる神の確かさにあるのです。

 

 改めて与えられた箇所の場面をごいっしょに思い巡したい。「こういうことを話していると」とある弟子たちの様子を思い浮かべてください。このとき、弟子たちは二人の弟子の報告を聞いていました。彼らはエマオの村まで、主イエスとは分からずにいたのですが、引き留めて、いっしょに夕食を食べようとしました。夕食の席で礼拝がささげられた中、彼らは主イエスだと分かったのです。主イエスが復活され、生きておられる。喜んでそのことを伝えようとエルサレムに急いで戻ってきて話をしていました。

 ほかの弟子たちは聞きながら、どうしてわからなかったのだ、エマオまでの途中で、聖書を解き明かしてくださったのだから、自分だったら分かったはずだ、となかば笑い話のようになっていたかもしれない。しかし「心の鈍さ」はまだ続いていたのです。

 エマオから急いで帰ってきた二人を含めて、弟子たちは依然として、心が鈍かった。しかし、彼らの不信仰や愚かさをものともせずに、主イエスは弟子たちのところに来てシャロームを与えていかれたのです。

 

 主イエスは「手と足をお見せになった。」(40)とあります。主イエスの十字架の傷あとを見たとき、彼らは主イエスだと分かったのです。しかし「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」(41)いました。受けとめきれない喜びを、主イエスがもたらされました。

 主が与えてくださるものを受け取って生きるには、私どもはあまりにもその器が小さいのです。しかしその乏しい器を主は赦して受け入れ、働きかけ続けてくださっているのです。

 主は、「喜びのあまりまだ信じられず」にいる弟子たちの前で、魚を一切れ食べてくださった。ルカはそれを丁寧に記しました。先ほど申しましたように、この話は数え切れないほど繰り返して語り継がれたはずです。

 魚を食べてくださった主イエスの話は、どういう意味があるのでしょうか。それは実に単純なことです。日々に生きる私どもと共に主はおられるしるし、なのです。私どもが食事をするとき、たとえば魚を一切れ食べるとき、主もまた同じように食べてくださったことを思い起こすことができる。日々に生きる私どもと、主は共に生きてくださるのです。

 

 私どもも、食事をするとき、復活された主が魚を一切れ召し上がった話を、ときには思い出していただきたい。主イエスもまた、私どもと全く同じように食べてくださった。私どもと歩調を合わせて、共にいてくださるのです。

 いろんなことがある中にも、うろたえるときにも、主は「シャロームがあるように」「平和があるように」と働きかけ、守り抜いてくださるのです。

 

 魚、という聖書の言葉は、イクトゥス(ΙΧΘΥΣですが、イエス・キリスト・神の子・救い主(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)のギリシャ語の頭文字をつなげると、イクトゥス、魚になります。魚を、初代教会は自分たちのしるしにしました。魚を一切れ召し上がった話と共にそうしたはずです。

 

 イエス・キリスト・神の子・救い主は、今もなお、私どもに働きかけ、あなたがたに平和があるように)、あなたがたにシャロームがあるように、と祝福して守ってくださるのです。



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