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2024年11月17日(日)

降誕前第6主日

 

礼拝説教 「主イエスだとわかった        


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書24:13-35


<讃美歌>

(21)26,17,210,334,65-1,27

 

 よく知っている人に会ったのに、とっさに名前が出てこないことがあります。しかし、もし自分がよく知っている人に会ったときに、その相手は三日ほど前まで一緒に過ごした人なのに、相手が私どものことを思い出してくれないということがあるでしょうか。

主イエスが復活された日のことです。エルサレムからエマオという村へ二人の弟子が、とぼとぼと歩いていました。そこへ復活された主イエスが来られて二人と共に歩まれたのですが、二人は主イエスだとは気づかずにいたのです。そんなことがあるでしょうか。

 とてもキリスト教会で愛されてきた話です。エマオの途上の出来事と呼ばれたりします。多くの者が、二人の弟子たちの姿に自分の姿を見いだして慰めを与えられてきました。どのようなところに慰められたのでしょうか。 

 朗読してお分かりになったと思いますが、自分たちの経験を主イエスに語った二人は、いっしょに歩いているのが主イエスだとは分からずにいたのです。主イエスがそばに来られて語りかけられ、実際に出会っていても、私どもは気づかないことがあるということでしょう。

二人はどういうことを話したかというと、仲間の女性たちが主イエスの墓に行ってみると、遺体を見つけずに帰ってきました。しかも天使たちが「イエスは生きておられる」(23)と告げたというのです。そこで仲間の何人かが墓へ行くと、女性たちが言ったとおり、空っぽだった。しかし「あの方は見当たりませんでした」(24)と言うことに留まりました。

 つまり彼らは、主イエスの復活のことを聞いたけれども、信じることができなかったのです。しかしこの二人のことを心が鈍いと言えるのは、主イエスのみではないでしょうか。私どももまた、神様が目を開いて信仰を与えてくださらなければ、信じることができないのです。教会に与えられている信仰は、私どもが生み出したものではなく、主なる神、主イエスご自身が与えてくださった信仰です。だからこれまで教会は信仰を継承してきました。

 二人の弟子は最初、いっしょにいる誰とは知らない人に対して(それは主イエスですが)、そんなことも知らないのですかと鈍い人のように扱っていました。それはその数日エルサレムで起こったことをその人は知らないのだと思い込んだからです。しかし主イエスはその当事者であって、心が鈍いのは彼らの方でした。

 主イエスから二人は25節で「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち」と言われました。そう聞くと私どもは、自分はそうではないと自信を持って言えるでしょうか。むしろ「物分かりが悪く、心が鈍」いのは、自分のことだと思うのではないでしょうか。そして二人が、主イエスによって目が開かれて、主イエスが分かったことは、自分たちの話だと捉えることができるのです。福音書を記したルカの教会の者たち同様に、二人の弟子が、主イエス・キリストによって目が開かれて、主イエスだと分かったことは、大きな慰めです。

 「心が鈍い」という言葉は、原語では、遅い、ゆっくりという意味合いです。それは遅すぎてとらえることができないということです。主イエスは私どもに、心が鈍い、遅すぎて神の出来事をとらえることができない、と言われます。私どもは、神様からは全く動かないほどに見えるかも知れません。しかしそのような二人の弟子と共にエマオの途上で共にいてくださったように、私どもと共に歩調を合わせて歩いてくださるのです。

 小さなヨチヨチ歩きの子どもの手を取って、やさしく子どもの歩く調子に合わせて寄り添っている保護者の姿は、とても慰められます。小さな子どもは喜んで歩いていますが、おそらく歩調を合わせもらっているとは思っていないでしょう。もしかしたら、自分一人で歩いているつもりかもしれませんが、実際は手をつないでもらって危険な道を歩くことができるのです。

 主イエス・キリストは、二人の弟子、クレオパともう一人の弟子と共に歩いて、彼らの心の鈍さを嘆かれました。しかしそこから始めてくださったのです。主イエスは道すがら、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを」(27)説き明かしてくださいました。ここでいう聖書は、旧約聖書ですが、旧約聖書全体が救い主イエス・キリストを指し示して書かれていることを教えてくださったのです。これは本当にぜいたくな、うらやましい出来事です。

 二人はエマオの村に到着しましたが、主イエスを無理に引き留めて、泊まってもらおうとしました。夕食の席で、主イエスが礼拝の祈りをささげ、パンをさいて渡してくださったとき、彼らの目が開かれ、主イエスだと分かったのです。するとその姿は見えなくなりました。(31)大切なことは、礼拝の中で、主イエスだとわかった、主が共にいてくださることが分かったことです。

 ルカは注意深く書いたと思います。それは、主イエスの姿は見えなくなったが、存在が消えたのではないということです。共におられる主イエスを、彼らは信じるようになりました。主はよみがえられて共に生きておられることを信じたのです。主イエスが道すがら、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを」説き明かしてくださったことは、ルカもそうですが、新約聖書の記者たちによって、教会に伝えられました。旧約聖書の引用で、多いのは詩編とイザヤ書ですが、エマオの途上での主イエスの説教が、いくつも反映しているのではと想像しています。

 キリスト教会は、聖書全体が主イエス・キリストを伝え、十字架と復活の救いを語りかけていると信じて礼拝をささげ続けてきました。そして、主イエスはいまも生きておられ、私どもと共におられることを礼拝において経験してきました。そのことは、エマオの途上で二人の弟子たちが経験したことと、同じ出来事であるのです。

 私どもも礼拝において、共に聖書から神の言葉を聞く、その恵みの中で、主イエスが心鈍い私どもを愛してくだっていること、そして共に生きておられることを知り続けるのです。

 エマオの村についた二人の弟子たちは、主イエスが聖書を説き明かしてくださったとき、「わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)と語ります。ふりかえってわかる燃える心です。それは静かな神の働きであって、熱狂的で一時的なものとは全く違うものです。静かに確かに燃えて、だれも消すことができない、神の働きによるものです。その神の働きがいまも教会に与えられています。

 二人の弟子は、エルサレムからエマオへと、最初はとぼとぼと下り道を歩いていたはずです。エルサレムは600メートルあまりの山の上の町です。そこから60スタディオン、約12キロの距離にエマオの村があります。二人が夕食の席で主イエスを知ることができたときは、もう日も沈んでいました。しかし「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」(33)とあるように、夜道を、しかも上り坂を疲れもいとわず、エルサレムの仲間のところへと帰っていきました。その押し上げる力は神からの喜びです。ここから教会がはじまりました。主イエスがわかった喜びです。主イエスがおられることがわかった喜びです。

私どもに与えられている神様からの喜びの力を信じて生きていきましょう。神様からの喜びは、礼拝の喜びです。確かに主イエスは生きておられます。ときには、暗い道を歩くときがあります。しかも苦難の上り坂を歩くようなとき、主なる神の喜びの力が、私どもを押し上げていくのです。



 
 
 

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