【聖霊降臨節第21主日】
礼拝説教「十字架上の祈り」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書23:28-43
<讃美歌>
(21)26,6,207,78,295,65-2,28
人は、切羽詰まって追い込まれたときに、その人の普段は隠れた姿が明らかになることがあります。今日与えられています箇所で、主イエス・キリストは十字架へと向かっておられます。そのときには、弟子たちにも人々にも分からなかったのですが、私どもの救いのために、私どもが負うべき神の審きをその身に受けてくださるために、十字架へと向かっておられるのです。そのお姿と御言葉に思いを深めていきましょう。
主イエス・キリストが私どものために十字架に命を献げられたとき、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな」(28)と言われました。そして、エルサレムの都がやがて陥落する滅亡の日の預言をなさいました。実際、70年にエルサレムの都は滅びてしまったのです。
だれも避けることができない出来事があります。しかし天地が揺り動かされるような時にも、決して動かない救いに生きることができるのです。そのことを主イエスは自ら示していかれました。そのことは、主イエスが十字架の上で祈られた祈りにあらわされています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34)
主イエスは、十字架の上で、あざけりと侮辱を受けられました。酸いぶどう酒もまた侮辱のしるしです。十字架上で極限までのどが渇くときに、酸いぶどう酒を飲むとよけいにのどが渇いて苦しむのだそうです。
ある日の黙想会で、主イエスのたとえを学びました。ルカ15章のたとえですから、そのたとえのメッセージが今日の箇所ともつながって響いています。学んだのは有名なたとえで、通常「放蕩息子のたとえ」と呼ばれます。しかしドイツの教会では一般的に「失われた二人の息子のたとえ」と呼ばれるようです。弟と共に兄もまた、失われた息子だった。父の子どもとして生きていなかったのです。
たとえの中で、弟が放蕩三昧して我に返り、真実に悔い改めて父の元に帰ったとき、弟は当然のことながら息子と呼ばれる資格はもうないと確信していました。しかし父の思いは、弟の想像をはるかに超えていたのです。再び息子として受け入れました。父の愛を受け入れた弟は、はじめて父の子どもとして生きるようになったのです。
問題は兄です。生真面目に働いていた兄は、父にとても忠実に仕えていました。しかし果たして、子どもとして生きていたのか疑問です。父に貢献することで自分を確かめていたようです。しかしそのような兄の、父との関係は主人としもべの関係に近いのであって、父の子として生きていたとは言えないのです。
弟が受け入れられた姿は、私どもに救いとは何かを教えます。救いを受けるために差し出すものが何もなくても、弟のように、私をゆるしてくださいと祈るときに、主なる神はゆるしを与えてくださる。救いを与えてくださるのです。私どもが受けるべき神の審きは、主イエスが十字架の上で代わりに受けてくださったからです。
たとえの中で、兄が父の思いの理解に苦しんだほどに、主なる神の愛が大きいことを知り続ける必要があります。たとえの中の父の姿はまた、主イエスの姿でもあって、それは十字架の上にあらわされました。
主イエスの両側に、二人の犯罪人が十字架にかけられていました。彼らの一人が主イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(39)するともう一人がたしなめました。自分たちは当然の報いを受けているが、この方は何も悪いことはしていない。
そして彼は、イエスが救い主(キリスト)であることを十字架の上で受け入れ、その信仰を言い表しました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには
わたしを思い出してください。」(42)
この「思い出してください」というのは旧約聖書にある祈りです。
「わたしを御心にとめてください」という祈りです。
十字架の上であっても、我に返り「わたしを御心にとめてください」と祈って、神のゆるしに生き、救いに入れられたのです。「ゆるしに生きる」ことは、とてつもない神の愛の働きです。
ゆるすことができないことがあります。自分に対するときがあります。また人と人とがすれ違うとき、国と国とが争うときがあります。しかしそのようなときこそ祈ることができるのです。私どもをゆるしてください。私どもも人をゆるしますと。この礼拝から神のゆるしと和解がはじまっているのです。
「父よ彼らをお赦しください」と、十字架の上から「ゆるしに生きる」とてつもない神の愛の働きがはじまりました。その神の愛の働きは今もなお続いています。神の愛の働きはだれも止めることはできないのです。
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