top of page
shirasagichurch

2024年10月27日(日)

降誕前第9主日

 

礼拝説教「復活なさった」         


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書24:1-12


<讃美歌>

(21)26,10,287,333,65-2,27 

 

 今日は午後に、教会修養会が予定されています。年度主題聖句「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。[…]わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授(さず)ける。」(マタイによる福音書16章18 –19節)、また年度目標「主の助けを祈りつつ、共に主の信託に応える。」について思いめぐらすときです。信仰の再発見があるように、祈り心もって過ごすときでもあります。そのような祈り心は、この礼拝からすでに始っています。

 「わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授(さず)ける。」と言われた主イエス・キリストの言葉を思いますときに、私どもはそのような鍵を授けられることにふさわしいものではなかったはずです。なぜなら、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われた主イエスが、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を与え続けて、教会を建ててくださったから、教会に救いに至る鍵がこれまで授けられてきたのです。

 主イエスが「わたしの教会」と言われたときに、それは全世界のすべての民を思いにかけて言われたはずです。しかし、私どもはどこまでその主イエス・キリストの広い御心の中で、私どもの教会を考えているでしょうか。ふと思い出したことがあります。

 

 今から30年少し前のことです。渋谷教会で神学校の卒業後に1年間仕えていた頃、ある日昼食におそば屋さんに入りました。初めてのお店で、とても混んでいてなかなか注文も受けてくれませんでした。結果やっと頼んだおそばが来たときに、間違えましたと言って、大盛りのおそばが出てきてサービスしてくれたのを覚えています。しかしもっと印象に残っているのは、斜め向かいのテーブルに座っている方の顔が、どこかでお目にかかった見覚えがあって、気になって仕方ないのに、なかなか思い出せなかったことです。

 おそばを待ちくたびれたこともあって、長く座っているうちに思い出したのです。それは、その数年前、高松地方裁判所である裁判を傍聴したときの裁判官だったと、思い出しました。

 

 生まれて初めての裁判傍聴でした。四国の善通寺に四国学院というキリスト教大学があります。その大学に、私はときどきたずねていました。キリスト者学生会というキリスト教の宣教団体の主事をしていました。高松の住まいからたずねて、学生たちと聖書研究をしたり、いろんな話をきいて相談に乗ったりもしました。その大学にA先生がおられて、ある日礼拝の後、指紋押捺(しもんおうなつ)の拒否を巡って裁判が近く行われることを話してくださったのです。「日本では犯罪者と外国人だけが指紋押捺をさせられる。どう思いますか。」と言われて、返す言葉がありませんでした。しばらくして、ほかの先生や学生たちと、指紋押捺拒否に関わる裁判の傍聴に高松地方裁判所に行きました。そのときの裁判は、あっという間でした。確か手続き上の問題で、継続審議になったのですが、裁判官の顔を覚えていたのです。

 

 また、崔善愛(チェ・ソンエ)さんという方のお話しを聞いたことがあります。指紋押捺の当事者となってこられた崔さんの本を2冊ほど読ませていただきました。その中に私の知っている先生の名前がありました。その牧師はかつて、九州の、ある炭鉱の近くで伝道されていました。

 九州教区にいた頃に、同じ委員会で御一緒していたのですが、ある日、その先生の教会で委員会がありました。フィールドワークもあって、ある墓地に連れて行ってくださった。そこは、かつて強制連行で炭鉱に連れて来られた方たちが亡くなったときに、墓標も無く葬られて土が盛られた場所です。現地の限られた人しか、かつての歴史を知らない。そこへ連れて行ってくださって共に祈りました。その墓地には、かつての歴史を知らずにペットのお墓にしてその墓標がいくつか並んでいました。「タマ」とか「ぽち」とかいった類いです。その先生はこんなことを教えてくださいました。

 韓国から、幾人もの方がたずねてこられます。強制連行でこの近くの炭鉱につれて来られて亡くなった先祖をたずねて来られる。おそらくここに埋められたのだろうとたずねてこられるのですが、犬や猫には墓標があるのに、自分の先祖は名前もなく葬られた。「アイゴー」といって泣かれるんですと。うめくような出来事を経験されたことがあるのではないでしょうか。

 

 今日与えられています箇所は、主イエス・キリストが復活なさった出来事が記されています。かつて、この個所から語りかけたことを想いおこします。

キリスト教の保育園にイエス様のお話しに行っていたことがあります。ある日、子どもたちと礼拝を献げたのですが、いつもとちがって、礼拝を献げるお部屋の正面に、ある先生の写真とお花が飾られての礼拝でした。その先生は、37歳で天に召された、男性の栄養士の先生です。写真をみるなり、ある子どもたちは「K先生」と呼んでいた。病気がわかったときには、ステージ4でどうしようもなかったそうです。4歳のお嬢さんとお連れ合いを残して、天に召されました。

 

 子どもたちに、イエス様が死んでしまって、みんなどうしていいか分からなかった話をしました。そのときに、ヨセフさんという人がきて、自分がつくった大切なお墓に、イエス様をきれいな布(亜麻布)に包んで入れましたと。

 子どもたちにとって、ヨセフさんと聞くと、クリスマスの劇のマリヤとヨセフを思い出すので、そのヨセフさんとは違う、アリマタヤに住んでいたヨセフさんと言ったのですが、どうもかえってよけいなことを言って混同した子もいたようです。

 ヨセフは、罪なきお方が、十字架に殺されてしまって、しかもその決議をした会議の一員だったので、せめてもイエス様を丁寧に葬って差し上げたいと思ったことでしょう。

 子どもたちに話しました。ヨセフさんはとても驚いたのですが、イエス様は死なれたけれども、三日目に復活されてお墓が空っぽになりました。ヨセフさんのお墓がイエス様の復活の場所になりました。

 ヨセフさんはイエス様の復活を信じました。自分が死ぬときにも、神様のもとでイエス様の復活の命を与えていただいて守っていただける。K先生も、イエス様のもとで復活の命をいただいて、守られています。イエス様は復活されて、いまも私たちを守っていてくださいます。

 

 主イエスが復活されたとき、天使から主の復活を告げられた女性たちはそれを弟子たちに告げました。しかし「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」(11)とあります。

 ありえないと思ったのです。ルカはそれを正直に記しました。主の復活をたわ言と思ったことから教会の歩みがはじまったのです。それでも主は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。[…]わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授(さず)ける。」と言われた約束を、いっさい変えることなく支えてくださいました。ですから、教会の存在が今あるのは、主なる神のお働きによるのです。

 たわ言のように思った弟子たちも、やがて死からよみがえられた主イエスに出会い、復活を信じるようになりました。主の復活の救いを伝えたのです。天国の鍵を授けられる喜びに生きました。かつての自分たちと同じように、まわりには、たわ言と思われたでしょう。しかし神様が働かれて、復活があることを伝えてくださいました。人にはできないことも、神にはできるのです。

 復活された主イエスを信じる信仰を、教会は神様の力によって受け継いで今に至っています。神に赦されて受け入れられ、救いを与えられる信仰です。主イエスの救いは、主イエスの復活の命と繋がって生きることです。地上で生きながらにして復活の命に生きることです。神様どうしてですか、という夜の闇のような現実に、喜びの朝をもたらしてくださる希望に生きることができるのです。

 やがての日、この地上の生涯を終える日に、神様のもとで新しい命を与えられることを教会は告げてきました。救われて神に受け入れられる希望です。その希望は、やがての日だけではない。すでにはじまっています。神様に赦されて受け入れられ、神と共に生きる希望です。天国の鍵を授けられることは、まことに尊いことです。その鍵が授けられていることは、教会である私ども自身を救いに生かし、支えていくのです。

 

 主イエスはいまも共に生きてくださっています。主イエス・キリストは、天国の鍵そのものであるのではと思います。うめくように、主よ、どうしてですか、と叫ぶような現実に共に生きて、そこに道を開いてくださるのです。復活の道に、いつも主は招いてくださっていることを信じていきましょう。




 

閲覧数:7回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page