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2024年10月20日(日)

聖霊降臨節第23主日

 

礼拝説教「死に際しても」         


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書23:50-56


<讃美歌>

(21)26,15,208,442,65-2,27

 

 ルカによる福音書を少しずつ学び、24章の終わりが近づいてきました。直前の箇所では主イエスが十字架に命を献げられました。そして、この日の個所は主イエスが墓に葬られたことが記されています。主イエスのお体を墓に納めたのは、一番側近くにいた12弟子たちではなかったのです。ペトロたちという皆が知っている弟子たちではなく、ヨセフという議員が登場します。これまで名前を聞いたことがない、隠れた弟子と言えるでしょう。

 議員というのは、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンの議員です。イエスという者を十字架にかけることを決議してローマに引き渡した当事者です。その議員のひとりのヨセフが主イエスを墓に納めたのです。

 議員であるヨセフが行ったことは、それまで社会的にもっていたすべてを失ってしまうかもしれないことでした。おそらく議員の立場を失ったのではないか。それだけではなく、ユダヤ人たちが十字架にかけた人を引き受けて葬ったのですから、ユダヤ社会からヨセフもまた葬られてもおかしくないのです。

 しかしヨセフは、自分がこの先どうなるかよりも、主イエスのことを思って行動しました。人を恐れずに、勇気を出して歩んだ者の姿が記されています。しかしルカは、ひとりの人の信仰をほめたたえているのではなくて、主なる神が働いて、そのような信仰の歩みを与えたことこそ、ほめたたえて記しているのです。

 

 主イエスが十字架で息を引き取られ、悲しみに暮れてどうしていいか分からずに女性たちは嘆いていました。どうやって主イエスを葬ればよいか途方に暮れたはずです。

 そのようなときに、実にサンへドリンの議員のひとりが存在をかけて名乗り出たのです。主イエスを十字架へと追いやった、ユダヤ最高議会のサンへドリンの一員であるアリマタヤ出身のヨセフが、ローマ総督のピラトにイエスの遺体を渡してくれるように願い出ました。

 

 「安息日が始まろうとしていた」(54)とありますが、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。主イエスが十字架上で息を引き取られたのが金曜日の午後3時ですから、日没まではそう時間がありません。日没を過ぎれば安息日に入るので、掟で葬ることができないのです。十字架の上にお体をさらしたままになる。ですから待ったなしで、どうしていいかわからずにいたのです。

 そのようなときに、ヨセフが申し出てくれました。心を砕いて祈っていた者たちには、どんなにかうれしかったことでしょうか。祈っていた女性たちにとっては、自分たちが申し出ても相手にされない中での出来事でした。

 なぜ、議員であるヨセフがそのような行動がとれたのか、不思議です。イエスの遺体を引き受けるという、そんなことをすれば、先ほどから申していますように、自分の議員としての立場を失ってしまうかもしれないからです。

 これは想像ですが、もしかしたら、ヨセフは前もって決めていたのかも知れない。

 「同僚の決議や行動には同意しなかった」(51)とあります。これはイエスという者を十字架にかけて殺すことに反対していたということです。しかしヨセフ一人ではどうにもならなかった。そのときに、主イエスを丁寧に葬ることを密かに心に決めていたのかも知れない。

 さらには、十字架上の主イエスの姿と言葉を聞いたときに、密かな思いが強くされたのではないか。百人隊長と同じように「本当に、この人は正しい人だった」と告白したのではないか。その信仰の告白を行動に表す恵みに彼はあずかったと信じることができるのです。

 とても不思議なことですが、十字架に主イエスをかけて殺す具体的な指示をした当事者の百人隊長が、主イエスへの信仰を言い表しました。「本当に、この人は正しい人だった」と。その百人隊長がやがてキリスト者になったという言い伝えが残っています。

 また、イエスという者を十字架にかけることを決議してローマに引き渡した最高議会の一員が、ここで、主イエスを墓に心を込めて納めようとしているのです。

 

 ヨセフは主イエスの遺体を渡して欲しいと願ったときには、ひとつの強い願いがあったはずです。それはせめて主イエスを墓にちゃんと葬ってあげたいという願いです。たとえ、これまで築いたすべてを失うようなことになってもそうしたいと、心から願ったのです。自分がこれからどうなるかは全く問題ではなかったのではないか。それほどに彼は主イエスにとらえられていた、神を信じる恵みにとらえられていたのです。それは、神の愛に捉えられていた姿でもあります。神の愛は、全く報いを期待しない、無償の愛だからです。

 

 ルカは「まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」(53)と記します。マタイによる福音書によればヨセフは「岩に掘った自分の新しい墓の中に」(マタイ27:60)主イエスを納めた、とあります。ヨセフがかつて自分のために用意した墓です。ヨセフが主イエスを墓に葬ったことを多くの者が絵に描きましたが、それは皆、年老いたヨセフの姿なのです。

 やがては自分の入るべき墓に、主イエスを先に葬ったのです。ヨセフはまだここで、主の復活は全く予想もしていない。主イエスを自分の墓に先に葬ったということは、どういうことか。それは自分もまたやがて死んだとき、この墓に納められるつもりで主イエスを先に葬ったのです。やがて主イエスの傍らに葬られるなら、自分の人生はこの上もないものだ、そう心から思えたことでしょう。

 

 ヨセフがそこまでできたのは、「神の国を待ち望んでいた」(51)からです。それはヨセフも密かではあっても、主イエスの弟子であった。神の恵みの支配のもとにいたということです。

 主イエスを葬ったときに、ヨセフは主イエスの復活のことはまったく心になかったはずだと言いました。しかしここに名前が記されているのは、やがて初代教会で名前が知られている中心的なキリスト者のひとりとなっていったと考えられます。

 

 私どもは間違いなく、やがて死を迎えます。そのときのためにお墓のことを考えます。小平霊園の教区墓地も、やがて納骨の棚がいっぱいになることが予測されて、それに備えています。お墓を整えることは必要です。しかしもっと大切なのは、私どもの信仰です。私ども教会は主イエスが復活されたことを信じていますし、ともすれば復活なさったことに思いが集中します。それ自体は大切なことですが、忘れてはならないのは、主イエスが死んで墓に葬られたことです。そのことは、主イエスが私どもに先立って、死の現実に横たわってくださったことです。

人は、どのように死ぬかはある意味で選べないところがあります。思い通りにいかないような死を迎えることもあるでしょう。思いがけない仲間の死に直面して深く悲しむことがあります。しかしその思い通りにいかない死の極みは十字架の死です。その十字架の死の現実に主イエスは身をゆだねてくださいました。ですから、私どもがいかなる死を迎えるときにも、そこに先立って主イエスが身をゆだねてくださったと信じることができるのです。そして、死からよみがえられ、だれも道を備えられなかったところに、道を備えてくださいました。私どもには、主イエスを信じて地上での生涯を終え、身をゆだねる信仰の希望が与えられているのです。その希望をルカが、全存在をもって、心の底からの感謝をもって記したのです。

 

 アリマタヤ出身のヨセフもやがて主イエスの復活に出会いました。自分が用意した墓が、主イエスの復活の場所としてくださったことに震えるような光栄を感じたでしょう。ヨセフが老人だったなら、主イエスが復活されてから、自らが地上での生涯を終えるときはそう遠くはなかったことになります。

 やがて自らが葬られるときに、その墓に主イエスも先に横たわってくださったと信じて、どんなにか心強かったかと思います。しかしその心強い思いは、ヨセフだけのものではないのです。

 確かに主イエスは、私ども同様に人として葬られました。墓の中に死者として私どもに先立って葬られ、私どもの一人として死を経験されたということは慰めではないでしょうか。私どもが世の旅路を終えて横たわるところは、すでに主イエスがその身を委ねてくださったところであるのです。

 さらに私どもにとって慰めであることは、そのような主イエスが、死において死に支配されることなく、死からよみがえられて、いまも生きて教会の主として、救い主として働きかけてくださることであります。

 

 ですから、私どもは、どのようなときにも主イエスに信頼して祈ることができるのです。思い通りに行かないことがあります。それを受け入れることが生きることだとも言えるかもしれません。しかしヨセフの墓に横たわり、そこを復活の場所としてくださった主イエスは、私どもの現実に横たわるように共に生きて、新たに信仰を与えて導いてくださるのです。

 主イエスが私どものただ中に生きて、私どもが与えられている現実から起き上がって、新しい歩みを喜びをもって生きるように働いてくださることを信じていきましょう。



 
 
 

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