【聖霊降臨節第15主日】
礼拝説教「心に満ちるもの」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨナ書3:1-10
ルカによる福音書11:29-36
<讃美歌>
(21)25,7,55,360,65-1,29
主イエスは「あなたの体のともし火は目である。」(34)と言われました。不思議な表現です。「あなたの体のともし火は目である」とは、どういうことでしょうか。こんなイメージで考えました。それは、私どもの目があるものを見ているのです。しかも、光を見ています。その見ている光によって私どもの目が、太陽の光を反射する月のように輝いていることを「あなたの体のともし火は目である」と言われたのです。
太陽の光を反射する月のように、見ているものによって私どもの目が輝くということですが、思い起こすことがあります。イースターの卵探しで、隠れた卵を必死にさがす幼な子の目が輝いていました。
ここでは、たとえを話された主イエスが、そのたとえの中にご自身を語っておられます。それは光である主イエスを見ているときに、私どもの目が輝き、それによって体全体が明るくされるというのです。私どもが信仰を抱いて主イエス・キリストを見ていくことによって照らされていく。具体的にはどういうことでしょうか。
直前の箇所で主イエスは「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(28)と言われました。
聖霊の助けによって、主イエスの言葉を聞き、それを守る人となり続けていく。そこに、主イエスを見て目が輝き、全身が照らされていく幸いがあるのです。
全身が明るいというのは、暗いところも照らされていくということです。罪を照らされ、悔い改めて、主にどうかおゆるしくださいと祈っていくことは、全身が明るくされることなのです。
主イエスは、神の言葉を聞き、そこに語られている神の恵みを見るようにと導かれているのではないでしょうか。神の恵みを見ることとはズレていた、しるしを求める人々に対して、主イエス・キリストは「ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない。」(29)と言われます。ヨナのしるしとは何でしょうか。
旧約聖書に登場する預言者ヨナは、ニネベに神の言葉を伝えました。ニネベは大国の首都で、いつイスラエルを滅ぼすかもわからないのです。そこに行って、このままではこの町は滅びると、神の言葉を伝えていくことは、命がけのことです。しかしニネベの町の人々は王を始め悔い改めたのです。
主イエスがヨナのことを語られたときに、まず「今の時代の者はよこしまだ。」(29)と言われました。
「よこしまだ」と訳されている言葉は「目が濁っている」(34)と訳されている「濁っている」と同じ言葉です。今の時代の者は、見るべきものを見ていないということです。「濁っている」「よこしまだ」という言葉は、「病んでいる」とも訳せます。神との関係がズレている、健やかではないということです。
「目が濁っている」の反対は、「目が澄んでいる」という言葉です。それは「単純な」とも訳せます。素朴に、まっすぐに見ているのです。
幼な子の素朴な眼差しを思います。赤ちゃんは、お母さんの母乳をもらうために胸に抱かれた、その距離で一番顔がよく見えるそうです。
私どもはすべてを見通せないでしょう。しかし礼拝で一番神様に焦点が合うのです。礼拝を献げ、主イエスに出会い、まっすぐに見上げていくところから、私どもの人生に輝き、光が与えられ続けていくのです。
ヨナのしるしとは何でしょうか。それは、主イエス・キリストご自身が私どもにとってのしるしです。そして、その主イエスの御言葉が私どもにとってのしるしです。
当時の人々は、主イエスの御言葉、説教よりも、もっとすごい天からのしるしを求めました。
しかし主イエスは、私が語る神の言葉を聞き、信じてその御言葉を生きようと祈り求めていくところに救いがあると招かれたのです。天からのしるしはむしろ、主の御言葉です
キリスト教会は、二千年来、ヨナのしるしである、主イエスの御言葉の説教による礼拝を献げ続けてきました。
礼拝という、ともし火をともし続けてきたのです。礼拝が、主のともし火を世に輝かせているのです。人の目には、いとも小さなともし火かもしれません。しかし消えない確かな救いのともし火です。
救いのともし火は、ご一緒に主の御言葉を聞いて礼拝を献げていくところに灯されていきます。
私どもを慰め、主イエスの救いに生かすともし火を、この礼拝によってご一緒に輝かしていく恵みに生きてまいりましょう。
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