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shirasagichurch

2023年9月10日(日)

【聖霊降臨節第16主日】

 

礼拝説教「心に満ちるもの」   

 

 願念 望 牧師

<聖書>

エレミヤ書17:14 

ルカによる福音書11:37-44


<讃美歌>

(21)25,1,208,476,65-1,29 


 ファリサイ派の者たちへの厳しい言葉が、主イエスから語りかけられています。ルカがこの言葉を記したときに、どんな思いだったかを想像します。おそらくは、自分たちへの主イエスからの語りかけと信じて記したはずです。自分たちに関係のないファリサイ派の話ではなくて、主イエスが語られた言葉を思い起こして、悔い改めに導かれたということです。私どもも、主イエスがここで私どもに語りかけておられると信じて思いを深めていきましょう。


 主イエスが語りかけておられる言葉を、ルカが記したときの思いを理解するために、ルカによる福音書はいつ頃記されたかを考えてみたいと思います。信頼できる学者たちによれば、おそらく80年から90年です。加藤常昭先生も次のように記しています。「ルカがペトロ、パウロの死後、エルサレム崩壊後、80年から90年までに、福音書と使徒言行録を書いたことは、ほぼ確実なこととして推測し得る。」


 書かれたのが80年から90年とすれば、それは迫害の非常に厳しい時代です。さらにその厳しさが増していく頃です。そのようなときに、自分たちの信仰をふさわしく継承していかないと途絶えてしまいかねない、危機感の中で記されたのです。


 旧約聖書のエレミヤもまた、危機的な時代を生きた預言者です。バビロン捕囚の前とそれが起こった捕囚時代を生きたのです。その時代は、力に頼ろうとして、結局より大きな力によって国が滅んでしまったのです。神により頼むことを忘れてしまったかのような時代でした。エレミヤの嘆きが、エレミヤ17章9節に記されています。「人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいる。誰がそれを知りえようか。」

それを受けて、14節には

「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。

あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。

あなたをこそ、わたしはたたえます。」と告白しているのです。エレミヤは、「とらえがたく病んでいる」その一人として、主なる神に、より頼む思い、信仰を告白しているのです。

 思い巡らす中で、この箇所の主イエスの言葉とつながってきます。

「杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(39)人はとらえがたく病んでいることを、自分では知りえないのであって、主から教えていただく必要があるのです。


 主イエスは語りかけられました。

「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」(41)

 「器の中にある物」とは、直訳すると「内にあるもの」です。人の内側にあるものが、人を生かすものでなければ与えることはできないでしょう。では内側を何で満たせばいいのでしょうか。「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と言われる主イエスが、心に満ちるものは何であるべきかを語りかえられます。ふさわしいものを満たせば、必要でないものは追い出されるはずです。心に満ちるものが、その人を動かすのではないでしょうか。

 主イエスは「正義と神への愛」(42)を語られます。

 「正義と神への愛」と訳されていますが、直訳は「正義と神の愛」、あるいは「裁きと神の愛」です。

 「裁きと神の愛」「正義と神の愛」とは、私どもが礼拝で経験していることです。御言葉に裁かれて照らされ、さらに主の御言葉により、神の愛に生きることです。

 「神の愛」は「神からの愛」とも訳せます。神の愛を受けて、私どもが神を愛する恵みに生きるのです。神を愛する歩みは、神が愛しておられる人を愛する歩みでもあります。神と人とを愛する中で、私どもの内側が神の愛による恵みに満たされて「あなたたちにはすべてのものが清くなる」と言われたのではないでしょうか。


 使徒パウロの生涯を思い起こします。パウロは、ルカに福音を伝えたとも言われます。パウロの伝道の同労者としてルカは旅を共にしました。

パウロはこう記しています。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(Ⅰコリント15:10)

 この告白に、「器の中にあるものを人に施せ」との主イエスの言葉に従う姿があるのです。

 私どもは教会の営みの中でいつも、させていただいている喜びに生きます。神の恵みに動かされている喜び、自由が与えられているのです。


 改めて今日の個所を思いめぐらせますと、「不幸だ」と三度も語られた主イエスは、とても厳しいものです。しかし、その厳しさはまた、神の愛の表れでもあるのです。主イエスは何度でも「幸いだ」と語りかけ、主の恵みに生かそうと招いておられるのです。

「外側を造られた神は、内側をもお造りになったではないか」(40)と招いてくださるのです。

 先ほど、ルカも、エレミヤも、危機感の中で神の御言葉に生きていったと言いました。危機感をいただくところに、神御言葉もまた、ふさわしく響いていくのです。

「外側を造られた神は、内側をもお造りになったではないか。」

 私どもの内側を、造りかえてくださる主がおられるのです。

 罪を赦し、強欲と悪意を追い出して、神の愛で満たし、その恵みを私どもが分かちあって生きるよう、主イエスはなおも働き続けてくださるのです。心に満ちるものが、私どもを動かしているのです。

 

 私どもの内側を主なる神が、その恵みに満たすよう働きかけてくださることに身をゆだねていくとき、主の恵みが私どもを動かしていくのです。日々に内側を造りかえてくださる主なる神が、私どもの魂を神の愛に満たして動かしてくださることを信じていきましょう。




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