【聖霊降臨節第11主日】
礼拝説教「よい道を選ぶ」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書10:38-42
<讃美歌>
(21)26,6,371,81,499,65-1,29
2018年だったと思いますが、ローマ法王フランシスコは、原爆投下後の長崎で撮影された少年の写真に「これが戦争の結果」というメッセージを添えたカードの配布を指示したそうです。写真は米軍の従軍カメラマンが1945年に撮影したものです。少年が亡くなった弟をおんぶひもで背負って、火葬場で順番を待って、じっと立つ姿をとらえています。カードには法王のサインと共に「少年の悲しみは、かみしめた唇とにじんだ血に表れている」という説明が記されています。
平和聖日の礼拝をささげていますが、心を合わせて、主なる神様が私どもの世界を憐れんで、よき方向へと導いてくださるように祈りましょう。
エレミヤという預言者も、戦いが起こった荒れ野のただ中に立った一人です。エレミヤは、若くして預言者に召されます。頼りとする経験はとても乏しいものでした。そのようなときに、神様の語りかけを聞くのです。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」(エレミヤ1:7‐8)
当時の難しい状況で、神様の言葉を伝える預言者となっていくことは、殉教の死を覚悟しないとできないことでした。当時のユダヤの国は、大国のエジプトとバビロニアに挟まれた小さな国でした。エレミヤは戦いを避けて、降伏してでも主なる神様に祈ってゆだねていくべきだと説くのですが、人々に受け入れられないのです。実際、彼らは戦いを挑んで、バビロニア帝国の王ネドカドネザルに滅ぼされてしまいます。国のおもだった人々はバビロニアに捕囚の民として連れ去られます。戦いが終わった荒れ野のような祖国に残されたエレミですが、なおも主の愛を語ったのです。神様の愛を預言者として伝えました。さらにエレミヤは、来たるべき日を伝えたのです。
それは、神様の御言葉が私どもの心に記されて、だれであっても主を信じて生きることができるようになるというものです。エレミヤの預言は、新約聖書につながっています。その預言が実現して、主イエスは救い主としてお生まれくださいました。
主イエスがお生まれになって、だれであっても救いを受けて生きることができます。主は私どもを受け入れ、罪赦して導いてくださるのです。主イエスが救い主となってくださったので、私どもも、エレミヤが聞いた言葉を神様から語りかけていただけるのです。
マリアとマルタもまた、主なる神からの語りかけに生きていったのです。同じ恵みの御言葉を私どもも聞き取っていきましょう。
「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」。(39節)とあります。マリアは何を聞き取ったのでしょうか。
「その話」は直訳すれば「彼のその言葉」であり、明らかに、主イエスの御言葉と理解することができます。
マリアが「主の足もとに座って」主イエスの御言葉に聞き入る姿は、当時の弟子としての姿でもあると言います。その当時、旧約聖書を教える教師であるラビは、女性が弟子になることを許さなかったと言われます。しかし、ルカによる福音書は、8章1節以下にマグダラのマリアたちのことが記されているように、だれであっても主イエスの弟子となるよう喜びをもって招いているのです。
主イエスこそが、誰よりも喜びをもって、マリアが「主の足もとに座って」弟子として聞き入ることを受け入れておられるのです。マリアもまた、主イエスが喜びをもって語りかけてくださる御言葉にとらえられ、座り込んでいます。離れることも、動くこともできないで、聞き入っていたのではないか。
マリアは主イエスから何を聞き取ったのでしょうか。何を語っていただいたのでしょうか。この箇所には直接には記されていません。しかし、先立つ箇所から響く言葉があります。ルカによる福音書が先の箇所の主イエスの御言葉をここにも響かせているのです。
ある意味で、ここまで記されていた、ルカによる福音書のすべて言葉から主イエスの言葉を聞き取り、その語りかけに聞き入ることを著者は願っているかもしれなません。
マリアが主イエスから何を聞き取ったかを想像することは、喜ばしい黙想です。これまでのすべての箇所に触れることはできませんが、ふたつほど取り上げてみたい。
主イエスがナザレの会堂で教えられたときイザヤ書を朗読されました。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」(4章21-22節)とあります。
マリアもまた、主イエスの「口から出る恵み深い言葉に驚い」たに違いない。主イエスの「恵み深い言葉」、慰めの語りかけは、聞く者の内で慰めの出来事となって御言葉が実現していったのです。
また主イエスは、御自身の喜びに弟子たちを連ならせるために、天にその名が記されていることを喜ぶべきだとはっきりと語られました。(10章20節)主イエスは御自身の喜びの道に、弟子たちを共に立たせて、押し出していかれたのです。10章1節以下で弟子たちは、実際に主イエスによって遣わされて伝道し、主イエスの喜びの道を歩み出すのです。
この箇所で、主イエスの足もとに座ってその御言葉に聞き入るマリアの動きは記されていません。しかしマリアは今後、何もしないでただ座ったままになってしまうわけではないはずです。
主の御言葉に聞くことは、聖霊の働きのもとでふさわしく聞く時に、そこに、神の言葉に聞くことによってこそ与えられる動き、喜びの歩みが与えられていくのです。
ルカによる福音書は、マリアに倣うことを求めているのではないか。しかしマルタがしているもてなしを、不必要とはしていないし、主イエスもそれを受けられたはずです。しかし、マルタという名前が、女主人という意味を持つことからも暗示されるように、彼女は、自分のもてなしの支配のもとに主イエスを招き入れているのです。しかし、主イエスは御自身の恵みの支配、神の国の福音のために彼女たちを招き入れようとしておられます。当然そこには、軋轢が生じ、マルタは、マリアに直接促すのではなく、主イエスに、彼女を手伝うように注意してほしいと願いながら、実際は、主イエスのことも非難しているのです。
ここで問題となっているのは、食事のもてなしと御言葉を聞くこととの順番の問題ではありません。たとえ、主イエスからマルタが語られて、しぶしぶマリアと一緒に座って主の言葉を聞き、それから食事の支度をしても、主イエスがマルタに語ろうとされ、招き入れようとされた喜びに、すなわち、「必要なことはただ一つだけである。」(42節)と言われた道に、立つことにはならないのです。
「必要なただ一つのこと」は、マリアがそうしたように、主の足もとに跪いて御言葉に聞き入り、主イエスの弟子となっていくことであります。その道に立つ時に、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10章20節)という主イエスの御言葉が聞こえてくるのです。そしてその喜びをだれも「取り上げ」(42節)ることはできないのです。
直前の10章25節以下の「憐れみ深いサマリヤ人」の譬え話にある問いもまた、この箇所になお響いているのではないでしょうか。すなわち、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25節)という問いです。
マリアの姿に、問いへのひとつの答えがあって、ルカによる福音書はマリアが招き入れられた道へと招いているのです。それは「永遠の命を受け継ぐ」道が、主イエスにあるということです。その道に生きる幸いは、すでに主イエスが「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」(23節)と祝福されたものです。マリアは、主イエスの祝福のもとで、「永遠の命を受け継ぐ」道に歩み出しています。そして、「永遠の命を受け継ぐ」道の主である、主イエスの恵みの輝きに慰められたはずです。
「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた主イエスが、どうされたか。それはマリアに、またマルタに御言葉を語りかけて彼女たちを救い、いやしていかれたのです。
先ほど、エレミヤという預言者が、戦いの起こった荒れ野のただ中に立った一人であったと言いました。主イエス・キリストこそが、まことの預言者、救い主として、戦いによってではなく救いによって神の平和をもたらそうとただ一人の救い主としてこの世の荒れ野に立たれて、救いの御言葉を語りかけてくださっているのです。その主の御言葉をマルタとマリアも聞いたのです。
私どもも主イエスから御言葉を聞き、心からアーメン(その通りですという意味)と告白することができるのです。主イエスの言葉を聞くときに、神への応答、祈りへと導かれることができます。続く11章の冒頭で、「弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』」(1節)と願っているのは繋がりがあります。「祈りを教えてください」という願いは、礼拝に集う私どもの願いでもあります。
主イエスは、私どもが礼拝の恵みに生きて、神の言葉を聞き、祈りを献げて生きるように導き、また「それを取り上げてはならない」と、教会の主として、今も堅く立っておられるのです。取り上げられない神の平和をもたらそうと、主が今も働いておられることを信じて共に主に仕えていきましょう。
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