【聖霊降臨節第14主日】
礼拝説教「神の子」として生きる
村越 ちはる 牧師(桜美林教会)
<聖書>
フィリピの信徒への手紙2:12-18
<讃美歌>
(21)26,20,390,492,65-1,29
フィリピの信徒への手紙2章12-18節には、信仰者としてイエス様にお従いするとは、どういうことなのか、パウロの勧めが記されています。神さまに結ばれ、イエス様にお従いしたいと思いつつも、私たち信仰者は様々な現実のなかで生きています。悲しみや落胆を経験するなかで、「それでも」神の子として生きるとはどういうことであるのか、パウロは私たちに示します。
フィリピの信徒への手紙は、キリストの使徒であるパウロという人物から、フィリピという場所の教会に宛てて書き送られた手紙です。パウロは元々、ファリサイ派と呼ばれる、ユダヤ教のグループに属しておりましたが、キリストとの出会いによって、一転して「イエス・キリストの弟子」として、各地を周りながら福音を宣べ伝えておりました。パウロの宣教旅行は、多くの困難を伴うものであり、このフィリピの信徒への手紙を書いたときには、「福音を宣べ伝えた」という理由でもって彼は牢獄に捕らわれていたといいます。獄中のパウロは、「それでも」フィリピの教会の信徒に対して、「神さまの救い」に望みを置くようにと勧めます。これほどまでにパウロを強め、動かしたものは一体何だったのだろうかと思います。勿論、神さまの霊が働いておられるのでしょう。しかし、パウロがなおも望みを抱いて信じ、フィリピの教会を励ましたことの根底には、パウロに与えられた信仰者としての希望と、神さまに望みを置く者としての平安が、彼を満たしていたのではないかと思います。この希望を、ご一緒に見て参りたいと思います。
ファリサイ派の人々は、旧約聖書に記されている律法や、ユダヤ教が伝統的に大切にしてきた非常に多くの規定を特に重んじ、熱心さをもって、それらの規定を一字一句守ろうとしていた人々でありました。彼らには、「律法を忠実に守ることによって、神さまが応えてくださる」という確信に近いものがあったのでしょう。そこには、他国の支配を受けていた当時のイスラエルが、いつかは神さまによって救われるのだという、切望にも似た思いがあったのではないかと思います。しばしば近隣諸国との争いや、支配に苦しんだイスラエルの歴史を鑑みれば、そのような希望を抱いたのは当然だろうと思います。しかし少し考えますと、そこには「律法の規定をきちんと守るならば、神さまが自らにとって状況を都合の良いものに変えてくださる」という考えが、あるようにも思えます。そして本日の聖書箇所を読みましても、私たちが神さまの救いを得るために、「不平や理屈を言わず(14節)」に、神さまに従順であれ、と言われているようにも受け取れます。しかし、私たちは大切なことを覚えておかなければならないでしょう。聖書における神さまの救いは、私たちが何かをなしたから与えられる、という類のものではないのです。そうではなくて、神さまの恵みは、常に私たちの前に差し出されているのです。これは、パウロの著した他の手紙からも理解することができます。(エフェソ2章8-9節 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。)
勿論、私たちが神さまを真に畏れ、御前にへりくだり、神さまに喜んでいただけるような生き方を模索していくことは、何より大切なことでありましょう。それを完全に為すことは難しいかもしれませんが、信仰者はたえず、神さまに助けていただきながら、そのような歩みへと一歩を踏み出すように招かれているのです。
私たちは、自分にとって好ましくない状況にあるとき、誰しも落胆し、失望します。そして、どうかこの状況から救い出して頂けるようにと祈るでしょう。それは、私たちの内からあふれ出る、切実な祈りです。しかし、どのような時にあっても、私たち一人一人を愛の神さまが捕らえて離さないということを、信じて良いのです。そのとき私たちは、真に神さまの御許にあるという平安に、満たされるのだろうと思います。パウロは今日の箇所の最初で、「私の愛する人たち(12節)」と呼びかけていました。これは、この手紙の宛先であるフィリピの教会の信徒だけでなく、私たち読み手に対しても向けられた言葉でありましょう。パウロを満たしているキリストの愛が、私たちにも注がれます。
私たちが生きている現実は、いつも好ましいものであるとは限りません。むしろ、私たちは本当に困難な現実のなかを生きていると言わざるを得ないと思います。パウロは「よこしまな曲がった時代の中で」と述べていましたが、私たちは本当にそのような世を生きているのです。そのような世にあって、神さまの命の言葉を保ち続けて歩むことなど出来るのだろうか、と、私たちは思います。しかしそれでも、御言葉は私たちの前にあり、神さまの光が私たちを照らすのだと、パウロは述べるのです。
牢獄に捕らわれたパウロもそうですが、聖書にはしばしば、非常に絶望的な状況のなかで、「それでも」主なる神に望みを置く人々の姿が描かれます。そして、このような信仰者の中に、私は一つの希望を見るような気がいたします。それは、どのような状況にあっても、確信をもって「神さまに従う」という強い意志であります。そしてこの意志は、信仰者自身から発せられたものでありながら、その背後に、確かに私たちの内に働いてくださる神さまがおられるのでしょう。パウロは13節で、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」と述べるのですが、まさに、信仰者のうちに強く働き給うて、神さまの方に心を向けさせてくださるのは、他なる神さま御自身であると、パウロは述べるのです。それは何も、聖書に登場する人々だけの話ではありません。「私たち」一人一人の内に、神ご自身が、働いておられるのです。私たちは、私たちの内に働かれる神さまの希望を仰ぎ見、御心に応えて歩むようにと招かれるのでしょう。だからこそ、私たちは神さまの喜ばれないような思い、罪の誘惑から離れなければなりません。自分の悲しみに捕らわれ続けるのではなくて、主の光の中へと歩み出すのです。そのような生き方を通して、私たちは自らを、神さまの前に捧げるのです。
それは即ち、「神さまと隣人を愛する」という生き方でありましょう。神と隣人を愛する、それこそ真に律法を全うする生き方であるのです。その生き方とは、「悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ」ことでありましょう。そのように生きる者は、まさにパウロの言うように「神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保」って(15-16節)って生きるのです。「星が輝く」のはおおよそ、昼間ではなくて、夜の暗闇の中でありましょう。しかも、星は自らが光っているのではなく、他の光を受けて輝いているのです。そうだと致しますと、神さまの子どもとされた信仰者とは、神さまの光によって照らし出され、この世の暗闇にあって、どなたかに神さまの光を証ししていく存在だという事ができましょう。私たち一人一人を、神さまの光が照らし出します。小さな、弱い光であるかもしれません。しかし、神さまよりの光を身に受けて、暗い世のなかにあってその光を輝かしながら、ご一緒に歩みだして参りたいと思います。
Comments