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2023年8月13日(日)

【聖霊降臨節第12主日】

 

礼拝説教「主の祈り」  

 

願念 望  牧師

<聖書>

ルカによる福音書11:1-13 


<讃美歌>

(21)26,18,343,459,65-1,29


弟子たちは、「わたしたちにも祈りを教えてください。」と主イエスに願っています。私どもは、「祈りを教えてください」と願っているでしょうか。願いをかなえてほしいと願っても、祈りを教えてほしいと切実に願ったことがあるでしょうか。祈りが十分ではないことを、祈りに力がないことを漠然と感じることがあるかもしれません。しかし、祈りとは何かということを、主イエスは弟子たちに教えていかれました。祈りを教わる必要があります。私どもも、主イエスから祈りを教えていただきましょう。


 この箇所は祈りのカテキズム(信仰問答)と呼ばれたりします。カテキズムとというのは、信仰問答と訳されますが、信仰についての質問とその答えのやり取りです。別の言い方をすれば、祈りの教科書とも言うことができます。主イエスはここで、祈りの学校を開いておられます。

 主イエスは「祈るときには、こう言いなさい。」と教えてくださいました。


 そして「父よ」と祈るようにと教えてくださっています。「父よ」と祈るこの祈りに、主イエスが教えてくださる祈りの恵みが凝縮されています。

 「父よ」と祈るのは、元々主イエスが神の独り子として祈っておられる祈りの言葉です。主イエスのみが、そう祈ることがふさわしいのです。しかし主イエスはご自身と父なる神との祈りの関係に、私どもを招いてくださいました。主イエスが、私と同じように祈るようにと教えられたのです。

 私どもが父なる神に向かって、「父よ」と祈ることは本来あり得ないことです。


 私どもが「父よ」と祈ることができるように、主イエス・キリストは救いの道をひらいてくださいました。礼拝の日は、日曜日ですが、これは週の初めの日です。私どものために十字架にかかられた主イエスが、週の初めの日、死からよみがえってくださったので、そのことを感謝して喜び祝い、およそ二千年が経過したのです。

 主イエスが十字架で私どもに代わって父なる神の審きを受けてくださいました。ですから、「わたしたちの罪を赦してください」(4)と祈ることができるのです。

 主が復活されたことは、それによって救いの道がひらかれたということです。私どもは、滅びるのではなく主の復活の命によって生きる者とされたのです。

 そのような復活の命に生きることは、主イエスと共に祈りの生活を生きることです。「父よ」と祈りながら生きるところに、主の復活の命が注がれているのです。祈りの生活の中で、主が備え、与えてくださるものが私どもを支えているのです。


 「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦します」という祈りには、ひっかかる思いを抱かれるかもしれません。皆赦しているかと考えるからです。赦せないような現実に悩むこともあるのではないでしょうか。

 ある神学者は、「皆赦します」と祈るのは、自らのために「罪を赦してください」と祈る、赦しの条件ではないと解説します。全くその通りです。そして、「皆赦します」と祈るのは、そのように祈りながら「皆赦すことができますように」と祈っていることでもあるのです。


 主イエスは、たとえを話されました。ある人が急な来客で困って、友人のところにパンを貸してくれるように助けを求めたときに、「しつように頼めば」(8)助けてくれる、なおさら天の父は、祈り求めてくる者を拒まれることはないことを主イエスは教えておられます。そのような父なる神を信じて熱心に祈ることが大切です。祈りを聞いてくださる「父」を信じていく恵みに主イエスは導いてくださるのです。「そこでわたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9)


 さらに主イエスは私どもの祈りが祈りとなるために、聖霊が与えられることを求めるようにと、語りかけられました。

「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13)

聖霊は、私どもの祈りに命の息を吹き入れ、共に祈ってくださるお方です。キリストの霊、神の霊であり、主が目には見えないけれども霊として共にいてくださるということです。


 聖書には、主の恵みによって洗礼を受けるときに聖霊が与えられることが約束されています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)

 洗礼を受けて、聖霊を与えられるのですが、日々に聖霊に満たされていく必要があります。そのお働きのもとに生きて祈る恵みが与えられているのです。


 礼拝は祈りのときと言われます。礼拝において、聖霊は御言葉と共に働いてくださるのです。目には見えないけれども、主が共にいて私どもに働きかけ導いてくださるのです。

 祈りのときである礼拝からすべてがはじまります。教会生活の一つ一つもそうです。長老会の働きもそうですが、礼拝という祈りのときと結びついています。教会の営みの一つ一つもまた、祈りからはじまって、聖霊の導きのうちになされていくことを信じていきましょう。



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