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2023年7月9日(日)

【聖霊降臨節第7主日】

 

礼拝説教「名が天に記される」  

 

 願念 望

<聖書>

ルカによる福音書10:1-20 


<讃美歌>

(21)26,13,211,516,64,29

             

 木曜日の祈祷会で詩編を学んでいます。

 詩編は、古くから「嘆きとたたえ」と言われます。主なる神に向かって心を注ぎ出して嘆き祈るときに、その嘆き悲しみが、神へのたたえ、賛美に変えられていくことを「嘆きとたたえ」と表現したのです。

 私どもの悲しみ、嘆きを主なる神に言い表すときに、賛美と喜びに変えられていくのです。礼拝は、心を注ぎだすようにして「嘆き」を主なる神に言い表すときでもあります。その「嘆き」はもちろん、罪の嘆きがあります。主なる神に照らし出されて自らを知り、その罪深さを嘆いて主に向き直っていくのです。主に向き直っていく助けとして、礼拝で詩編を用いるのです。

また、言いしれない苦難や悩みの中での、言葉にならない「嘆き」もあります。「嘆き」を主が「たたえ」に変えてくださることは、どのようにしてかは説明することができません。ときには、嘆きのただなかに、たたえを生み出してくださることがあるのです。あるいは、心の深い思い、嘆きが主にうけとめられることによって慰められ、賛美と喜びに生きることもあるのです。


 賛美と喜びに生きることは、この礼拝において私どもが何より祈り求めることです。しかしむしろ、私どもに先立って主なる神が、賛美と喜びをもって生きるようにと招き、導いてくださるのが礼拝です。


 「喜び」という言葉は、新約聖書では原語で「カラ」ですが、上より与えられるものという意味合いがあります。私どもの喜びの源は、主なる神にあります。地上ではなく天にあるということです。


 私どもは喜びの根拠をどこに置いているでしょうか。何かよいことがあると喜び、好ましくないことが起こるとがっかりしてしまうことがあるのではないでしょか。経験することに喜びの源を持っていると、そのような歩みはすぐに揺れ動いてしまいます。

 主イエスは、喜びの源を主なる神に持つように、地上ではなく天に持つようにと語りかけられました。


「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(20)

 どのようなときに主イエスが語られたかというと、主イエスに遣わされた弟子たちが帰ってきて喜んで報告したときです。彼らが「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(17)と語ったことに対して主イエスがはっきりと言われたのです。


 「お名前を使うと」というのは、主イエスからの権威が授けられたといことです。「主イエスの名」がなければ、彼らは相手にもされなかったということでもあります。

 弟子たちは実際に目にすることができたことに心を動かされていました。しかし主イエスは、誰も見ることができないものを見ておられたのです。それは「霊的なこと」です。すべてを説明することができない主なる神の働きを見ておられたということです。


 「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と主イエスは弟子たちに言われました。

 しかし弟子たちのいったい誰が、そのことを知っていたでしょうか。主イエスはご自身を信じて従ってくる弟子たちの名が天に刻まれているのを見ておられたのです。そのことは何より主イエスの喜びでありました。


 私どもの名も天に書き記されているのです。教会では洗礼を受けて教会の仲間としてその名を記されていくことは、地上のことに終わらず、天にその名が記されることだと信じてきました。


 主イエスは教会に、すべての人を招いておられます。

 その意味では、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」というのは、すべての人がそうなるように願っておられるのですから、あらゆる人に向けられた招きの言葉でもあるのです。

 私どもも、私のような者でも洗礼を授けていただいたという喜びをもってお招きするのです。洗礼を受けてすべてを赦されて主なる神に受け入れられ、天に名を記されて父なる神におぼえていただける喜びに動かされて、あなたはなおさらそうしていただけるとお誘いするのです。


 ここで主イエスは、天に私どもの名が記される道がひらかれるように、歩みぬいておられます。少し前の9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。これは、十字架へと向かう決意を固められたということです。

 この箇所も、主イエスの十字架を指し示しているのです。主イエスはとても厳しい言葉を語られます。ご自身を受け入れない町を審く言葉さえ語られています。

 しかし主イエスは、彼らを審いて滅ぼされたのではなく、十字架の上で赦しを祈られました。十字架の上で彼らが受けるべき、また私どもが受けるべき審きをその身に引き受けられたのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)

 主イエスの十字架の救いによって、神からもたらされる喜びの道がひらかれました。主イエスは今もなお語りかけられます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」私どもの名が天に書き記されているということは、いつも私どものことを心にかけてくださっているということです。天地を造られた主なる神が、私ども一人一人のことを心にかけてくださるのですから、何と感謝なことでしょうか。私どもの名が天に記されるために、主が尊い犠牲をささげて、救いの道をひらかれたことを感謝して生きていきましょう。主なる神が、一人一人を漏らすことなく御心にとめてくださっていることを信じて、仲間を受け入れ、まわりの人を受け入れていく、その方のことを心にとめて祈っていく者となっていきましょう。



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