【聖霊降臨節第10主日】
礼拝説教「憐れみ深い人」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書10:25-37
<讃美歌>
(21)26,18,54,393,64,29
この箇所に記されている話は、ドイツの教会では「憐れみ深いサマリア人」と呼ばれると聞きました。「善いサマリア人」と呼ばれることがありますが、果たして「善い」という言葉が適切かどうか、議論があります。33節に「旅をしていたあるサマリア人」が瀕死のユダヤ人を見て「憐れに思い」助けたとあります。当時のユダヤ人から見て、サマリア人は受け入れられない人々でした。それは、信仰の純粋さを失ったと思いこまれていたからです。そのサマリア人がユダヤ人を助けるということは、ありえないことだったでしょう。しかも、追いはぎに襲われた人を助けるわけですから、自分も危険な目に合うことが十分考えられました。ただの見ず知らずの人であっただけではなく、ある意味で互いに敵対視していた人を、あなたならどうしますかと問いかけているでしょう。さらに、「憐れむ」という聖書の言葉が私どもに示していることがあるのです。そうでなければ、「行って、あなたも同じようにしなさい」という語りかけを理解することはできないのです。
この「憐れむ」という言葉は、聖書の原語では「はらわたが痛むように思う」という意味です。聖書では通常、主なる神が私どもを憐れんでくださるその憐れみのことです。主はご自身のお腹が強く痛むような、もっと言うと引き裂かれるような思いをもって働きかけてくださるのです。それは命がけの思いですし、命をささげても惜しくはないという神の愛をあらわしている言葉でもあります。通常、神様に対してだけ用いられています。すでに、ルカによる福音書に記されている言葉です。
たとえば7章で主イエスは、やもめの一人息子の葬儀に加わり、「憐れに思い」「もう泣かなくともよい」と語りかけておられます。
また15章に放蕩息子のたとえが記されていますが、父のもとに帰ってくる息子を遠くから見て父が、「憐れに思い」駆け寄ってくる姿があります。その父の姿は、父なる神の姿でもあるのです。いずれにしても「憐れむ」という言葉は、主なる神の御心を伝えるときに用いられています。
しかし、神様に対してだけ用いられている「憐れむ」と同じ言葉が、ここで、ただ一つの例外としてサマリア人に対して用いられています。ですから古くから、このあるサマリア人は、主イエス・キリストのことであると理解されてきました。
主イエスこそが、このサマリア人が瀕死の人を助けたように、敵である者さえ憐れんでくださる、自らではどうしようもない私どもを憐れに思い、救ってくださるのです。
その憐れみ、救いに源をもって、私どもも愛のわざに生きるように、「隣人を自分のように愛しない」と命じられています。しかしその時に、神を愛することをまず心にとめるべきことなのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(27)とあるとおりです。
私どものために命を献げて愛してくださった主イエスを愛することを忘れてはならない。主イエスが私どもを愛してくださったその神の愛に動かされてこそ、私どももまた愛のわざに生きるのです。
律法の専門家が、「自分を正当化しようとして、・・・『わたしの隣人とは誰ですか』」と主イエスに問うています。それに対して主イエスが「憐れみ深いサマリア人」の話をされました。
ある神学者は、「わたしの隣人とは誰ですか」と隣人を限定するところに、正当化しようとしている思いがあると言います。
「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、無限の広がりをもつ神の愛によって隣人を自分のように愛することなので、とてつもないことです。この掟の前では、誰しもその掟に到達できない罪を告白せざるを得ません。しかしファリサイ人たちは「わたしの隣人とは誰ですか」と隣人を限定して、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを守ることができるようにした。そのように自分を正当化したというのです。
自分を正当化して、自分を正しい者としていく、そこに自己義認の罪があります。これはとてもわかりにくい罪と言えます。律法の専門家も、自分を正当化している意識はなかったでしょう。自己正当化の罪をどうか教えてください、と祈る必要があります。
自分を正当化するのではない道がここで主イエスによって示されています。
人は自分が間違っていること、神に赦される必要があることを認めて生きる時に、むしろこのサマリア人のように主イエスに倣って神の愛に生きる者とされていくのです。
サマリア人の話は、できる範囲での愛のわざだったと言えます。
2デナリオンは、二日分の賃金です。大変な出費ですが、彼は自分の仕事を辞めたわけではない。なしうることをしたのです。
主イエスの愛に動かされていく時に、私どもは御言葉を守っていると言い聞かせて自分を正当化するためではなく、キリストの自由を与えられて感謝をもって仕える恵みが与えられていくのです。
サマリア人の姿に主イエス・キリストを見ることができると言いました。敵対関係にあったユダヤ人を彼は助けたのです。敵をも愛された主イエスの姿がそこにあります。瀕死の人が助けられたのは、主イエスによって救われることでもあります。その意味では、礼拝へと誘い、主イエスのもとへとお連れするのも、大切な愛のわざではないでしょうか。
「行って、あなたも同じようにしなさい」と主イエスは命じられました。その御言葉に従って、私どもも小さな愛のわざに生かしていただきたい。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた主イエスは、このあとどうなさったかということに注目して読んでいきますと、マルタとマリアの家をたずねて、御言葉を語りかけられました。救いを伝えていかれたのです。さらには、続く11章では弟子たちに祈りを教えておられます。主の御言葉を聞き、祈ることは礼拝で私どもが受けている神の恵みではないでしょうか。神の愛に生きること、神と人とを愛して仕えることは、礼拝から始まることを信じて、礼拝生活に励んでいきましょう。
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