【聖霊降臨節第6主日】
礼拝説教「主のあとに従う」
願念 望
<聖書>
ルカによる福音書9:57-62
<讃美歌>
(21)26,4,443,510,64,29
あるとき、アメリカの高校で銃の乱射事件があり10数名の犠牲者が出ました。大きな悲しみをもってニュースを見ました。物陰に隠れて難を逃れ、警察に誘導されて必死な様子で安全な場所に逃げていく様子は心が痛みます。さらに、アメリカの主要な放送局のひとつが、こんな意味のことを伝えました。アメリカの学校での銃乱射事件は悲しいことに普通のことになってしまったと。何十件というここ数年の事件が一つ一つ点で表されて、地図でアメリカ中に広がって記されていました。祈りに導かれました。自分の祈りが狭いことを悔い改めました。主よ、御心が天で行われるように、地上でも行われますように、と主の祈りを祈りました。もっと御心が地の上でも行われますように、と熱心に祈る必要があります。
主の祈りは主イエス・キリストがこのように祈りなさい、と教会に与えてくださった祈りです。「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と誰よりも祈り、歩み抜かれたのは主イエス・キリストです。その祈りの実現のために、歩まれているのが今日の箇所でもあります。厳しい道を歩んでおられます。直前の51節には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。これは、十字架への道を歩んでおられるということです。私どもの救いのために、命を献げる覚悟をなさった。それが「エルサレムへ向かう覚悟を固められた」ということです。
57節に「一行が道を進んで行かれると」とあるのも、単なるエルサレムへの交通上の道だけではなく、十字架に命を献げるために「エルサレムに向かう決意を固められた」その道でもあります。ここで主イエスはご自身に与えられた道を歩み抜かれることを、あらゆることにまさって優先されました。ある意味で、緊迫した状況、危機的状況を主イエスは歩んでおられます。そのことを十分に理解して、今日の箇所の御言葉に思いを深めていきましょう。
主イエスはある人に、「わたしに従いなさい」(59)と言われました。従うことを求められた主イエスご自身は、先ほどお話ししたように、徹底した思いを抱いてエルサレムへと向かっておられました。
主イエスがある人に「わたしに従いなさい」と言われたそのとき、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と願ったのです。しかし主イエスはそれをおゆるしにならなかった。これは、すぐには受けとめきれないところがあります。冷酷だと言えるかもしれない。厳しすぎると言われるかもしれないのです。
この個所の語りかけを聞いて、ひとつ心配になることがあります。それは、父を葬りに行かせてください」と願ったのを主イエスがおゆるしにならなかったことが、あらゆる場面でもそうであるべきだという意味で、律法化されてはならないということです。家族の葬儀にも出席しないことがここで勧められているのではないのです。主イエス・キリストご自身も、ナインの町でひとり息子を失った葬儀の列に加わって涙され、その母を慰めていかれました。「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)と語りかけられました。その時主イエスは棺に手を触れて「起きなさい」と語りかけられ、一人息子を生きかえらされた。(ルカ7:14)もちろん主イエスはいつでも死人を生きかえらされたのではない。死と絶望に支配された葬儀を、神の国の祝福の場とされたのです。
主イエスが求めておられた「わたしに従いなさい」というその真意はなにか。
ある神学者が、教会で行われる葬儀のことを語っています。教会で葬送のときが持たれる。それを主イエスはもちろん赦し、ご自身の恵みをもって支えてくださっています。教会での葬儀は、亡くなった方のお体と共に献げる地上での最後の礼拝です。そこでは、福音が宣べ伝えられ、神の国の祝福が語られる。ここに横たわるこの愛する方もその救いの喜びに生きてこられた。すべての罪を赦されて神に全く受け入れられている感謝に生きて礼拝を献げ、祈りつつ歩み抜いてこられたと語る、その葬儀は、「神の国を言い広めている」ときでもあるのです。主イエスが「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われたご命令に、教会は葬儀のときも徹底して従っているのです。
徹底して主に従うことを思うときに、私たちが従うことよりも先に、主イエスが徹底して父なる神の御心に従っておられたことを思い起こすべきです。徹底して御心に服従しておられた主イエスが「わたしに従いなさい」と招いてくださる。主イエスが御心へ服従された確かさによって、私どもも従っていくことができるのです。私どもだけの力では、従い抜くことができないことを主はよくご存じであります。だから主は「わたしに従いなさい」と御言葉を語りかけてくださるのです。
私どもは、従う者としてくださる主イエスを信じて、ついて行くのです。決心や努力、祈りをもって悔い改めつつ、主イエスについていく。その悔い改めの祈りや努力、決心は私どもの中から出てくるようでありながらまた、主の導き、聖霊の働きかけによって与えられるものです。聖霊は神の霊であり主イエスの霊です。目には見えませんが私どもと共に主が生きて働いてくださっている、それが聖霊の働きです。聖書に記されている主の御言葉を、私どもの心に届けて、人の力では理解しがたいことを悟らせ、信仰へと導いてくださるのです。聖霊は絶えず、御言葉と共に働いて私どもが主に従って生きることができるようにしてくださるのです。
父を葬りに行かせてください、という願いを主イエスが退けて、わたしに従い神の国を言い広めなさいと言われたことは、まだすべて受けとめきれないところがあります。律法化してはならないと言いましたが、それは、すべての場合に当てはめることはできないということです。先ほど言いましたように、私どもが家族の葬儀に出席してはならないなどということでは決してない。私どもは心を込めて出席し、主の祝福を祈るのです。ここで主イエスは特別な意図を持ってあえてそう言われた。むしろ、死に支配された世界から神の国の恵みへと引っ張り出して行かれた。その祝福をここで告げておられることを聞き取る必要があります。
思い巡らしているうちに、ここで、主イエス・キリストは、十字架へと歩んでおられることが改めて心にとまりました。主イエスが十字架のご受難へと従って行かれることは、父を葬ることをゆるされなかったことよりも、もっと厳しくあり得ない服従ではないか。ルカがここにあえて、誤解を招くような言葉を記したのは、主イエスの十字架への服従はこの世のどんな服従にもはるかにまさるものであることを指し示したのではないか。
そのことを教えられたときに、理解しがたい厳しさに光が差す思いがしました。
「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」という願いに、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と家族に別れをつげることをおゆるしにならなかった。そのことも、律法化できないのです。旧約聖書では、エリシャが預言者として召されたときに、家族に別れを告げることがゆるされています。ここで主イエスは、家族に別れを告げることをしないことよりも、はるかにまさって十字架へと前を向いて、従い抜いておられることを知る必要があります。
クリスマスの話をするのは、早すぎると思われるかもしれませんが、すでにどんなクリスマスになるのか、祈りを込めて楽しみにされている方もあると思います。クリスマスの出来事で、いつも語られるのは、主イエスがお生まれくださったとき、宿屋には身ごもっていたマリヤとヨセフのいる場所がなかったことです。そのことが今日の箇所にも続いています。主イエスは「人の子には枕するところもない」と言われました。ここが自分の居場所だと言えるところを主イエスはもたれないまま歩み抜かれた。それは私どももまた、この地上に永遠の住まいがなく、天にあるふるさとを目指すようにして生きるようにということでもあります。
しかし主イエスは、私どもに、天とつながっている、教会という居場所を与えてくださいました。礼拝に連なって生きることは、自分で自覚する以上に、主に従って生きる歩みを生きているのです。礼拝の恵みに生きることは、十字架の道に服従された主イエスに連なることです。そこから私どもの生きる歩みが生まれてくるのです。
礼拝の恵みによって、生きているようで生かされていることを知り続けていきましょう。また御言葉と共に聖霊が働いてくださり、生かされている私どもが、感謝して主に従って生きる者となり続けていきましょう。
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