【聖霊降臨節第9主日】
礼拝説教「へりくだって、神の愛に生きる」
村越ちはる 牧師 (桜美林教会)
<聖書>
フィリピの信徒への手紙2:1-11
<讃美歌>
(21)26,16,356,475,64,29
フィリピの信徒への手紙の著者であるパウロの活動を、私たちは彼の手紙や使徒言行録など、多くの書物から知ることができます。キリストの使徒であるパウロが、キリストを宣べ伝え、多くの教会が出来ていくのですが、その道のりは決して、平坦なものではありませんでした。パウロが多くの試練に遭いながらも、力強くキリストの福音を宣べ伝えていく姿から、私たち読者は大きな希望と勇気を与えられるのではないかと思います。しかし、フィリピの信徒への手紙1章には、この手紙が書かれた時、パウロが牢獄に捕らわれていたことが記されています。「キリストを宣べ伝えた」という理由で牢獄に捕らわれたパウロでしたが、そのような最悪な状況であったにも関わらず、大きな「喜び」をもってこの手紙を書いた、と述べるのです。なぜパウロが喜んでいたのか――それは、「自分が捕らえれている」という、この最悪な状況によってすら福音の伝道が進んでいるから、という理由からでありました。「神さまの救いが多くの人に宣べ伝えられているから、だからこそ自分は今、喜びに満たされている」——この喜びは、パウロ自身がこの福音によって救われ、生かされていたからこそ、あふれ出た喜びなのでありましょう。神さまの救いが、確かにイエス様によって訪れたことを信じる人々は増え広がり、ついには、パウロの時代から時と場所を超えて私たちのところにまで福音が届いているということを、私たちはパウロと共に喜びたいと思うのです。
本日は、2章の1節から11節をお読みしておりますが、その前半の部分である1-5節には、パウロの「すすめ」が書かれています。いずれも、イエス様に出会い、イエスさまを信じるようになった者とは、「どのようなものであるのか」ということ、そしてまた、そのようにキリストを信じる者の群れである教会とは「どのような集まりであるのか」ということが非常によく描き出されているように思います。「2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」私たちは、聖書を通して、或いは礼拝を通して、どのような状況にあったとしてもイエスさまに愛されていることを知り、そこから慰めを受け、励まされます。私たちが自覚してもしなくても、私たちの体は、神さまの霊の住処とされているのです。そのことを、いくらかでも知っているなら、私たちもイエス様と同じように、慈しみと憐みの心を抱き、同じ主の体の一部である兄弟姉妹と、思いを一つにし、他者を愛し生きるようにと、パウロは勧めます。しかも、教会に連なる私たちは、高ぶらないように、誰であっても相手を自分よりも優れた者と考えるように、群れの誰かが弱っているならば助けるようにと、それこそが、教会に連なる者の務めなのだとパウロは勧めるのです。もっとも、これはパウロ自身が勧めているというよりも、イエス様ご自身が示された生き方でありましょう。
続く6節以降には、ひとつの「賛美」ともいえる詩が書かれておりました。この賛美には、イエス様がどのようにその生涯を歩まれ、私たちにその姿を示してくださったのかが描かれます。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」まさにイエス様こそ、神さまの子どもであり、神さまと等しい方であるにも関わらず、まったくご自分を虚しうして、人として歩んでくださったのです。十字架の死、その最もおぞましい場所で、神さまの救いが完成したことを、私たちは信じます。でもそこに、神の愛があるのです。愛や希望とは真逆の場所で、神の愛と救いが示されました。イエス様は、私たち一人一人を、十字架の死に至るまで愛し抜かれたのです。だからこそ、そのように愛された私たちもまた、神さまと隣人を愛する歩みが可能となるのでしょう。教会においては、同じように神さまから招かれている兄弟姉妹を愛するようにと召されているのでしょう。教会とは、一体何なのだろうか、と度々考えることがあります。神さまに招かれ、共に一つの主の体となる場所、そうでありましょう。そして教会は、神の愛に直接触れることができる場所ではないだろうか、と私は最近思うのです。教会とは――パウロが言ったように――神の愛を知った者、キリストに倣って生きるようになった者が、同じように神さまに招かれた他者を愛する場、それが実践される場所だと言えるかもしれません。キリストに倣うとは、キリストを信じるとは、誰かの悲惨が、自分の悲惨になるということでありましょう。誰かに与えられた恵みが、自分の恵みともなる、ということかもしれません。そして勿論、それらの逆もまた然りでしょう。誰かを愛するとは、痛みを伴うことなのだろうと思います。しかし、私たちは一人で痛むのではありません。同じように神さまに招かれた、兄弟姉妹が、世界中にいるのです。私たちは、痛みも喜びも共に分けあう、兄弟姉妹がいるのです。その根底には、愛の神が、そしてイエス様がおられるのです。
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