【聖霊降臨節第2主日】
礼拝説教「あとで分かる」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書9:28-36
<讃美歌>
(21)26,3,343,285,64,28
先週、教区総会が持たれました。5月28日(日)の午後から29日(月)の午後にかけて2日間にわたって対面で開催されました。コロナのために過去3年間は書面による総会でしたから、4年ぶりの対面での教区総会でした。
久方ぶりにお会いする方々もおられましたし、転任して来られて初めてお目にかかる先生もおられました。2020年度から現在までに教区内に着任された教師たちが照会されたのですが、次々と紹介される先生方を拍手して歓迎していますと、私の名前も呼ばれて2021年4月に白鷺教会に教区内異動で着任したと伝えられました。不思議な主の導きとこれまでの主のお支えを改めて感謝しました。
開会礼拝で、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:17)と主イエスがペトロに問われた箇所が開かれました。復活された主イエスが、もう一度ペトロを弟子として招き入れてくださったのです。ペトロは、主の招きに応えて、弟子として主を愛して従っていきました。私どもも、主の愛に応答して、神と人とを愛する愛に生きることを心に刻んでいきたいと思います。
開会礼拝で説教をしてくださった牧師は、大学でドイツ語を教えている方でもありますので、休憩時間に質問してみました。礼拝のことをドイツ語で「ゴッデス・ディーンスト」と言うけれども、直訳すると「神の奉仕」となり、神様が礼拝を備えてくださる意味合いに取れますが、「神への奉仕」と訳す先生もおられます、どう思われますかと問いました。すると、神様が礼拝の恵みを備えて招いてくださる意味では「神の奉仕」ですが、その「神の奉仕」によって礼拝の恵みに応答することも生まれますので、「神への奉仕」ということも含んでいると思います。ですから、礼拝は、神様を出発点にして神様が愛をもって働きかけ、私どもも神の愛に応答していく動きがあるということです。
お隣に座っていた、別の神学者にも質問しました。ある神学校の教授です。主イエスがペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(21:15)と問われていますが、「この人たち以上に」という訳は別の訳の方がいいのではと思いますと。少しややこしい話しをしているようですが、「この人たち以上に」とは、ペトロが周りの人たちを愛している以上に誰にもまさって主イエスを愛しているか、という意味にとることができます。もうひとつ、まわりの弟子たちが主イエスを愛するよりも、それ以上にわたしを愛するか、と問われる意味にも取れます。主イエスがペトロたちの愛情を比較されているように取れるので別の訳語がいいのではということです。
「この人たち」は原語では、人とも物とも区別がつかない「これら」という言葉です。主イエスが、ペトロたちが漁を終えた舟や網を示されながら、「これら以上に」と言われたのではないかと思いますので、思い切って「いっさいにまさってわたしを愛しているか」と訳するのはどうですか、と言いますと、十分ありうるという意味のことを言ってくださいました。主イエス・キリストは、命を献げてまで私どもを愛してくださったのですから、その神の愛に応えて、私どももいっさいにまさって主を愛する愛に生きていくように招かれているのではないでしょうか。
さて、与えられています箇所で、主イエスが祈るために弟子たちを連れて山に登られたときに、そのお姿が変わりました。山上の変貌と言われることがありますが、変貌と表現していいのだろうかと思います。神学者たちが言うには、変わったというよりも、むしろ主イエスのほんとうの姿が表されたのだというのです。山に登られて、祈っておられるときに主イエスの本質が明らかになった。弟子たちはやがて、主イエスがどのようなお方であるかを、はっきりと知るようになりました。あとで分かったのです。それは、主ご自身である聖霊のお働きによってです。私どもはどうでしょうか。
私どもも、祈っておりますときに、すべてをご存じである主の前に、自らを包み隠さず明らかにされるのではないでしょうか。すべてをご存じである主が、深い憐れみをもって、私どもを受け入れ導いてくださるのです。しかし、主が知ってくださっているほどには、私どもは自分のことをよく分かっていないことがあるのではないでしょうか。いかに主が広い心で受け入れ、ゆるしてくださっているかは、あとで分かることもあるのです。
青森にいた頃の経験です。それは、雪に覆われている冬には雪の上からはわからないのですが、春になると雪が溶けて、雪の下からいろんなゴミが出ていることがありました。外からはわからない私どもの姿があります。
その私どもが、神へと向き直って悔い改め、罪赦されて救いを受けるため、主イエスは十字架にかかられました。私どもに代わって神のさばきを受けてくださったのです。
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31)とあります。それは十字架のことです。主イエスが十字架へといたる道について、モーセやエリヤと話しておられるときに栄光に輝いておられた。それは、十字架に神の愛、栄光が表されていることのしるしでもあります。
栄光に輝く主イエスの姿と言うと、私どもは、この世的な繁栄の姿や自分の望みが叶う自己実現のようなことと結びつけてしまうかもしれません。豊かであること自体が罪ではありません。しかし、それをどう用いるかが問題です。自分が成長することは感謝なことですが、自己実現や豊かになるために主イエスの救いを用いるのでは決してないのです。
むしろ、主イエスは、直前の箇所でこのように言われます。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために自分の命を失う者はそれを救うのである。」(9:23)
先ほど、礼拝は神の愛に応答するときだと言いました。
神の愛に生きることはまた、十字架を日々に背負って生きることでもあります。どうしてこのようなことで苦労するのかと、理由のない悩みを経験することがあります。一番つらいことかもしれません。しかしそこでこそ、私どもは主の十字架を思い起こして祈るべきです。主イエスが十字架を担うべき理由は何もないのです。あえて私どもの救いのために担ってくださった。そこに神の愛、神の栄光が現れているのです。
自分を愛するように隣人を愛そうとすることは、自分の限界を感じて悩ましい思いをいだくことがあります。しかし愛そうとするそこで主の十字架を垣間見ているのです。自分のような者がゆるされ受け入れられていることの尊さ、主の愛の深さを知るのです。神の愛に応答して主イエスについていくことは、十字架に表された主の愛を知り続けていくことでもあるのです。
十字架に表された神の愛の栄光は、人の目には隠されている栄光です。主なる神の聖霊が、御言葉と共に働いて明らかにしてくださらなければ分からないのです。
人の目には隠された神の栄光を、主は礼拝のなかで絶えず明らかにしてくださいました。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」(35)とある通りです。ペトロたち、主の弟子たちは「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」と父なる神から命じられたとおりに、主イエスに聞き、主を愛して従っていきました。
「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(33)と、ペトロは山の上で主イエスに言いました。先ほど、教区総会が対面で開催され、礼拝を共にしたときに、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」と思いました。
私どもは毎週集まることができていますが、礼拝において主の愛の尊さを知り続け、謙遜な思いで神の愛に応答して生きていきましょう。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」といつも感謝してきましょう。
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