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shirasagichurch

2023年6月18日(日)

【聖霊降臨節第4主日】

 

礼拝説教「受け入れる幸い」  

 

  願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書9:46-56  


<讃美歌>

(21)26,11,56,140,64,28

        

 ルカが福音書を記したときに、弟子たちの姿をありのままに伝えています。彼らのことを、どんな思いで書いたのでしょうか。おそらく弟子たちの姿と自分たちを重ねるようにして、主イエスが自分たちにも語りかけてくださっていると信じて書いたのだと思います。復活された主イエスが、目には見えないけれども、教会の主として働き、語りかけてくださっている御言葉として伝えたのです。しばしば弟子たちは、その間違いを主イエス・キリストから正されていくのですが、それは自分たちのことでもあると信じていたはずです。ですから私どもも、主イエスが私どもとともに生きて働きかけてくださっていると信じていきましょう。弟子たちを戒められた御言葉は、私どもへの語りかけでもあると信じて思いを深め、御言葉に導かれていきましょう。


 今日与えられています箇所には、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」(46)とあります。

 これは明らかにこの世的な名誉の話で、互いに自分たちを比較していたのです。私どもも、互いを比較することがよくあるのではないでしょうか。頭ではよくないと思いながらも、人と比べて暗い気持ちになったり、逆にあの人ほどではないと自分に言い聞かせることがあるのではないでしょうか。弟子たちが「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという」話をしていたのは、主イエスが「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(44)とご自身の受難の道を明らかにされたそのすぐ後です。彼らは受難の道を行く救い主ではなく、英雄のような救い主を求めていたのではないでしょうか。当時の人々は、軍隊を率いてローマ帝国から解放してくれるような救い主を待っていたようです。弟子たちも大いに影響されていたでしょうから、だれが一番偉いかという議論は、単に互いを比べていたこと以上に、だれが将軍にふさわしいかというような思いが秘められていたかもしれません。

 それに対して「イエスは彼らの心の内を見抜き」(47)とあります。主は弟子たちのことだけではなくて、主なる神として私どものすべてをご存じであります。しかしそれは、私どもにとって慰めです。なぜならすべてをご存じである主イエスは、すべてを見抜かれたうえで、なおもこのとき弟子たちに愛をもって戒め、悔い改めに導かれたからです。

 主イエスは「一人の子どもの手を取り」弟子たちを教え諭されました。子どもを当時の人々は未熟で一人の存在としては受け入れていなかったようです。弟子たちもそうであったと思われます。しかし主イエスは「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(48)と語りかけられました。

 考えてみれば、神様から見るなら、私どもはいとも小さな存在です。弟子たちが子どもたちを小さく取るに足らない存在と思っていたなら、私どもは神様から見ればそれよりもはるかに取るに足らない者です。しかし主イエスは、そのような私どもを赦し受け入れてくださる救い主です。その救いのために受難の道を歩まれて、私どもが神様に受け入れられる幸いに生きる道をひらいてくださいました。

「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(48)

 「あなたがたの中で最も小さい者」とは、どういう者のことでしょうか。互いを比較してのことではないはずです。「あなたがたの中で最も小さい者」とは、ひとつには、自らを、神様の恵みを受けるにはふさわしくない、いとも小さな者だと知る者ではないでしょうか。神の恵みに照らされて、自分のことを主の恵みを受けるにはふさわしくない、いとも小さな者だと知る者は、最も神の恵みの中に深くいるのです。


 私どもを深く神の恵みに生かしてくださるのは、英雄のような救い主ではなく、受難の救い主である主イエス・キリストです。

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムへ向かう決意を固められた。」(51)とあります。

 主イエスは救いの道をひらくために、十字架に命を献げられる覚悟をなさって、その思いを深めていかれたということです。そのときに、ユダヤ人が通常ガリラヤからエルサレムへ行くときには通らない道を通って行かれました。それはユダヤ人と仲たがいしていたサマリアを通る道です。ご存じの方もあると思いますが、ガリラヤからエルサレムに行くには、サマリアを通るのが近道です。しかし、ユダヤ人もサマリア人も互いを避けていました。サマリアの人々は当然、ユダヤ人である主イエスと弟子たち一行を、受け入れませんでした。


 弟子たちは自分たちの先生がせっかく来られたのに受け入れられないので、怒りがこみ上げてきたのでしょうか。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54)とさえ言ったのです。しかし主イエスは彼らを戒められました。

 この朝、CS(教会学校)の子どもと大人の礼拝で話した、虹のことと結びつく思いがします。創世記でノアの時代に、神の裁きがあり、大洪水が起こりました。ノアたちは箱舟に乗って助けられるのですが、洪水の後、虹があらわれました。虹を見ながら神様が言われました。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。・・・水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」(創世記9:13、15)虹という言葉は、元々ヘブライ語でケシェツ(kesheth)と言って、「弓」という意味があります。英語で虹をrainbowと言いますが、bowは弓のことですから、雨のあとに空にかかる弓ということになります。

 弓は戦いの武器であって、その弓が虹として平和のしるしとなったのです。主なる神が弓を置くように働きかけて、地に平和を与えようとしておられるしるしとして、虹を見ることができるのです。

 弟子たちが「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」言ったときに、主イエスは彼らを戒められました。怒りの弓を置くようにと言われたのです。主イエスは弟子たちが敵対視するサマリア人のためにも、救いの道をひらかれました。「村人はイエスを歓迎しなかった。」とありますが、ヨハネによる福音書にはサマリアに主イエスが伝道された記事が記されています。(4章)主イエスは御言葉の種をまかれたのです。その種が芽を出して実を結ぶときが備えられていました。

 ルカによる福音書の後編とされる使徒言行録には、実にサマリアで弟子たちが伝道の大成功をおさめたことが記録されています。主イエスの十字架の死と復活のあとです。サマリアの多くの者が悔い改め、洗礼を受けて救いに入れられたのです。(使徒8:12-13)


 主はすべての者が悔い改めて救いに入れられることを心から望んでおられます。

 その大いなる神の愛を私どもに現してくださった主イエスと共に歩み抜くように祈り求めてまいりましょう。怒るときにも、主なる神ご自身が、裁きの弓を置いてくださったことを信じて、私どもも弓を置くようにしましょう。礼拝こそが、弓を置いて、主の平和を祈るときです。

 礼拝は、御言葉により戒められ、主の愛によって正されていく時です。

 主は怒りによらずに、深い神の愛によって照らし、正してくださるのです。

 主よ、どうか私どももあなたの思いに倣うことができますように、これからも御言葉により照らし導いてください、と祈りつつ礼拝の恵みに共に生きてまいりましょう。



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