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shirasagichurch

2023年6月11日(日)

【聖霊降臨節第3主日】

 

礼拝説教「心を打たれる」  

 

  願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書9:37-45 


<讃美歌>

(21)26,8,51,396,64,28


 主なる神は時を備えてくださいます。私どもの悩みや願いに主が時を備えて導いてくださるのです。なかなか思い通りにいかないことがありますが、主なる神は、私ども以上に心を痛めて導いてくださっています。そのような主の御心に思いを深めていきましょう。


 与えられているルカによる福音書には、コントラストがあります。「翌日、一同が山を下りると大勢の群衆がイエスを迎えた。」(37)その時は、朝のことだったと思われます。少なくとも昼間のことです。

 一方で直前の箇所には、主イエスの姿が、栄光に輝かれたことが記されています。しかしそれは夜の出来事ではなかったかと考えられます。主イエスが夜通し祈っていかれる中でのことだったと思われるのです。

 ですから夜と昼のコントラストがあります。しかも、夜なのに主イエスが栄光に輝いておられる。それに対して、昼なのに、そこに残されていた弟子たちには、いやすことができないでいたのです。ある父親の一人息子の問題に光が見いだせないでいるのです。私どもも、問題に解決の光が見いだせないで悩み、心を暗くすることがあるのではないでしょうか。

 さて、ペトロは山の上で栄光に輝く主イエスの出会い、山を下りないでこのままここに住みたいと思ったようです。ここに仮小屋を建てましょうとさえ言いました。しかし主イエスはそこにとどまることをされないで、山を下りて行かれました。それは、人々に出会い、彼らの願いに耳を傾けるためです。山を下りて、主イエスはある父親に出会われました。

 主イエスが嘆き訴える父親と出会っていかれたように、主イエスは私どもにも出会ってくださるのです。主日の礼拝は、私どもの現実のただ中に主イエスが来てくださって、私どもに出会ってくださるときでもあります。


 ある父親は「どうか、わたしの子を見てやってください。」(38)と叫びました。その悲痛な願いを主イエスは受けとめられたのです。


 「見てやってください」と訳されている言葉は、主なる神が私どもを心に留めて顧みてくださるように願うことを意味します。

 有名なマリアの賛歌にもこの言葉が用いられています。

「わたしの魂は主をあがめ

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 身分の低い、この主のはしためにも

 目を留めてくださったからです。」(1:47-48)

この「目を留めてくださった」が同じ言葉です。主は私どもにも目を留めてくださいます。どうか、御心に留めて顧みてください、と祈ることができるのです。どうか、御心に留めて顧みてください、と祈る祈りは、自分のためだけでなく、家族や友人のため、共に生きる人々のための祈りでもあります。

 主イエス・キリストは、嘆き訴える父親の声を聞いて、お答えになった。

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。

 いつまでわたしはあなたがたと共にいて

 あなたがたに我慢しなければならないのか。」(41)

主イエスも我慢が限界にきてしまわれたということでしょうか。そうではないのです。もちろん、主が忍耐を持って導いておられる意味では、我慢と訳すことはできると思います。しかし我慢という言葉には収まりきらない思いとお働きで、主は導いてくださるのです。「我慢する」と訳されている言葉は、「背負う、持ち運ぶ」という意味があります。

 有名なイザヤ書の言葉を思い起こします。

「わたしはあなたたちの老いる日まで

 白髪になるまで、背負って行こう。

 わたしはあなたたちを造った。

 わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)


 主イエスは私どもを持ち運んで救いに至らせてくださる救い主です。そのことは、大きな忍耐を伴うことです。我慢どころではないのです。私どもに代わって神の審きを身に受け、それによって私どもを背負い、救い出されたからです。

 主イエスはある父に「あなたの子供をここに連れてきなさい。」(41)と言われました。

 父親と周りの人々は、誰もいやすことができなかった、愛する一人息子をいやしてもらい、神をたたえました。

「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」(43)

 確かに、一人息子をいやしてもらったことはすばらしいことです。人々は神の偉大さに心を打たれて主イエスを賞賛しました。しかし主イエスはその賞賛にとどまることをされなかった。ある意味で、賞賛の山を下りるように、神の時に身をゆだねていかれました。人の目には隠された神の栄光の道に献身なさっていかれたのです。

 主イエス・キリストは、人々の賞賛を避けるようにして、十字架の上にあらわされる栄光へと身をゆだねていかれたのです。

「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(44)

 これは十字架の預言の言葉です。この時、弟子たちには理解できなかった。なぜなら神の言葉であって、神の領域の話であるからです。


 しかし神の聖霊の働きにより、やがて主イエスの救いの時が来たことを信じて、ルカは伝えたのです。弟子たちも主なる神の働きによって理解できるようになったのです。


 私どもも本来、人の理解を超えた救いを、聖霊の導きのもとで、主の御言葉によって信じることができることを心に刻んでいきましょう。備えられた神の時が来て、主イエスが救いを成し遂げられたことを感謝して生きていきましょう。神の時の恵みの中で、主イエスが私どもを愛して持ち運んでくださるのです。



 

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