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shirasagichurch

2023年5月7日(日)

更新日:2023年5月6日

【復活節第5主日】

 

礼拝説教「信じる幸い」  

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書8:40-56


<讃美歌>

(21)26,2,55,432,65-2,28


  ルカによる福音書を少しずつ続けて学んでいます。気をつけないと、前の箇所とのつながりを聞き漏らしてしまうことがあります。今日の箇所も、少し前に主イエスが言われた言葉とつながっています。

 主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(8:21)と言われました。

 教会のことを神の家族と呼ぶことがあります。主イエスは神の家族である教会のことを「神の言葉を聞いて行う人たち」と呼ばれましたのです。私どもは、神の言葉を聞いて行う人たちの群れであります。しかし、神の言葉を聞いて行うと言われると、私もそうですが、主の御言葉を聞いて行っているだろうかと思うのではないでしょうか。

 今日の箇所には、神の言葉を聞いて行うことはどういうことか記されています。神の言葉を聞いて行った人たちについて記された言葉に思いを深めましょう。


 主イエスが来られるのを、心待ちにしていた人たちの中に、ヤイロという人がいました。彼は会堂長であった。人々に信頼されていないとなることができなかった町の中心的な人物です。人からとても信頼されていたそのヤイロが、人目もはばからず主イエスの足下にひれ伏して願いました。自分の家に来て助けてくださるように願ったのです。12歳ぐらいの一人娘が死にそうであったからです。

 当時の12歳は、婚約したり結婚したりするような年齢であったようです。どうしようもない時にヤイロは、主イエスのもとに行ったのです。


 主イエスが娘のところへ行かれる途中、思いがけないことが起こります。それは、主イエスが足を止められて、群衆の中で「わたしに触れたのは誰か」(45)と言われたのです。大勢の群衆が主イエスを取り囲んでいましたから、接触していた人は大勢だったと思います。しかし主イエスは、御自身に触れて癒やされた人がいるのを知って、名乗り出るようにされたのです。

 12年も病気で苦しみ、全財産を使い果たした女性が、主イエスの服の房にふれて癒やされたのです。12年間は、ヤイロの一人娘が生まれてこのかた、ずっと苦しんでいたことになり大変な年月です。

 彼女もまた、どうしようもない中で、せめて主イエスの服の房にふれれば、癒やしてもらえるかもしれないと考えた。とても迷信的な信仰として批判することもできます。しかし主イエスは、彼女を祝福されました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48)

 ただ癒やされてひっそりと立ち去ることを主イエスはゆるされないで、彼女に癒やされるだけではなく、救いを与えられました。

 名もなき女性は、主イエスの救いの祝福をその身に受けて生きていった。つたない思いを「あなたの信仰」と呼んでくださる主の恵みを信じて生きていった。そのことに、神の言葉を聞いて行う幸いな姿があるのです。

 私どももまた、同じ幸いに生きることができる。礼拝で恵まれ、その恵みの御言葉を信じて生きることに、神の言葉を聞いて行う歩みがすでにあるのです。私どもは完璧ではありません。主よ、この週もわたしを憐れんでください、と祈りつとめていく。思いにおいて、言葉と行いによって罪を犯す時にも、主の赦しを信じて、主よおゆるしください、と祈ることにもまた、神の言葉を聞いて行う恵みの歩みがあるのです。神の言葉を信じて、祈りという行動に生きることを主は祝福してくださるのです。


 癒やされたひとりの女性が主イエスに祝福され、喜んでいる姿を見て、会堂長のヤイロはどんな思いだったでしょうか。やきもきして早く自分の家に来てほしい、とんだ邪魔が入ったと思ったのだろうか。決してそうではないはずです。もちろん最初は、一瞬も惜しい思いがあったかもしれない。

 しかし主イエスが、ひとりの女性のつたない思いを信仰として祝福してくださったことに、ヤイロは慰められたのではないか。ヤイロも自らの中に、十分な信仰が見いだせなくても、自分を受け入れてくださる主イエスの中に、確かさを見いだしていったのではないかと思います。

 しかし突然、会堂長の家の者が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」(49)と言ったのです。どうしようもない中、父であるヤイロも絶句し、絶望したかもしれない。その時に、神の言葉が語りかけられたのです。

 主イエスは会堂長ヤイロに言われました。

「恐れることはない。ただ、信じなさい。そうすれば娘は救われる。」(50)

 父ヤイロは信じた、とは記されていません。ただ主イエスの言葉について行ったに過ぎない。しかしそこにも、神の言葉を聞いて行う姿があるのです。

 娘は主イエスによって起き上がらせてもらい、救われました。


 この時に、主イエスは「この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。」(56)とあります。それはひとつには、主イエスが奇跡を行う人として伝わることを避けられたからです。

 主イエスが「娘は救われる」と言われたように、主イエスは救いを与えるために来られた。ルカによる福音書に「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(1:77)とあるとおりです。


 名もなきひとりの女性も、父ヤイロも、どうしようもない時に主イエスのもとに行きました。私どももまた、いかなる時にも主イエスのもとに行きひれ伏して祈ることができるのです。礼拝はまさに主イエスのもとに来てひれ伏す時です。

 私どもの信仰は、主イエスのもとに行った彼ら同様に、十分なものとは言えないかもしれない。むしろつたない思いであります。しかし主イエスは私どもを憐れみ受け入れてくださるのです。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語りかけてくださるのです。

 礼拝において主の語りかけを信じて生きていく時に、実に「神の言葉を聞いて行う人」として主イエスは祝福してくださるのです。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」とさえ語りかけてくださるのです。

 神の言葉を聞いて行う人の幸いは、私どものような、罪があり欠けを持つ者を、欠けを満たし罪赦してくださる主を信じて生きる幸いであります。

 主が欠けを満たし、共にいて助けてくださるので、神の言葉を聞いて行う喜びがあります。そのような礼拝生活の確かさは、いつも神の言葉を語りかけてくださる主イエスから来ることを信じていきましょう。 

 

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