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2023年5月28日(日)ペンテコステ礼拝

【聖霊降臨節第1主日】

 

礼拝説教「神の救い主」 

 

  願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書9:18-27


<讃美歌>

(21)26,12,204,81,346,65-2,28


 今日与えられています箇所には、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちも共にいた。」(18)とあります。立ち止まって考えさせられました。

 「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちも共にいた。」けれども、弟子たちが一緒に祈っていたとは記されていないのです。主イエスがひとりで祈っておられて、弟子たちが共に祈ることに至っていなかったとするなら、主イエスと共に祈る者となるように導いていかれたはずです。

 弟子たちを祈りへと導かれた主は、私どもをも祈る者となるように導いてくださるのです。礼拝を献げることを、祈りのときと言うことがあります。もちろん、礼拝は神をたたえるとき、また神様の語りかけ、御言葉を聞くときです。しかし、忘れてならないのは、礼拝は御言葉を聞いて祈りを与えられていくときでもあります。礼拝が祈りのときであることが、もっと私どもの中で深められていく必要があります。主は私どもを、祈ることができるように導いてくださるのです。

 今日はペンテコステ礼拝で、主なる神の聖霊が来てくださって、キリスト教会が誕生した日を祝います。聖霊が御言葉を私どもに理解できるように教え、御言葉に導かれて祈ることを助けてくださいます。ペンテコステは、第50という意味があり、主イエスが復活されて50日目に聖霊が来てくださったことを記念します。ルカによる福音書には、聖霊降臨日の出来事は記されていません。聖霊降臨は、主イエスが十字架にかかられ、復活・昇天されたあとのことです。しかし、主イエスがすでに聖霊降臨の出来事を先取りしてくださっているのです。洗礼をお受けになったときです。主イエスが洗礼を受けられる必要はありませんが、私どものひとりとなってくださった、そのしるしとして受けられました。

 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたし愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(3:21 - 22)

 「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたし愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」とあるように、神の聖霊が来てくださると、私どもに主イエスが救い主であることを、主なる神の御心に適うお方であることを教えてくださるのです。聖霊がそのように降って来られたのは、主イエスの祈りの中での出来事でもありました。

 「祈っておられると、天が開け」とあるとおりです。主イエスの祈りは天が開け、聖霊が共にいて、御言葉を聞かせ、救い主を悟らせてくださる祈りです。まさに、礼拝においてそのような、天が開け、聖霊が共にいて御言葉を語り聞かせてくださる恵みを、主イエスは先に示してくださいました。

 

 さて主イエスは、共にいた弟子たちにお尋ねになりました。

「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか。」(18)

 弟子たちは人々の言葉を伝えます。「洗礼者ヨハネだ。」「エリアだ。」「だれか昔の預言者が生き返ったのだ。」(19)どれも、考えられないほどすごいことですが、かつてあったことの繰り返しです。私どもは、自分の経験の中で御言葉を聞こうとして、うまくいかないことがあります。自分の考えや経験では元々とらえきれないことを聖霊が御言葉と共に働いて示してくださるから信じることができることを、しっかりと心に刻んでいく必要があります。聖霊の助けによって自分の外に出るようにして、御言葉を聞くのです。


 主イエスは弟子たちに向かって問われました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(20)

ペトロが答えました。

「神からのメシアです。」メシアというのは、救い主という意味です。旧約聖書の言葉ですが、代々に渡って待ち望まれていたお方ということです。メシアを新約聖書の言葉でキリストと言います。

 ルカはここまで、人となられた神の独り子としてのメシア(救い主)のことを記してきました。その意味では、かつて神から遣わされた預言者のひとりのような者ではなく、かつてなく今後もない、ただひとりの救い主(メシア、あるいはキリスト)として主イエスは私どものところに来られたのです。


 「神からのメシアです。」ペトロは正しい答えをしたのですが、ペトロはこのとき、正しく理解していたかは疑わしいところがあります。それは、政治的に軍隊を用いてでも解決をもたらそうとする、そのようなメシアを民衆同様に期待していたかもしれないからです。また、主イエスの救いの道はまだ完成していなかった。十字架への道はこのときまだ途上でした。ですから、

「このことをだれにも話さないように命じて、人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・殺され、三日目に復活すること」(21、22)をあらかじめ話されたのです。


 何のため苦しみを受けられて救いの道を切りひらかれたのか。それは、私どもが神様に罪を赦されて、神との生きた関係に導かれるためです。それは、主イエス同様に、祈るときに天が開かれて、祈りの道が通じることでもあります。


 主イエスがひとりで祈られたとき、そこには父なる神との生きた交わりがありました。独り子を十字架に献げて、私どもの罪の審きを代わって受けさせることは、父なる神にとって御心を引き裂かれる痛み、苦しみであったはずです。そのことを主イエスは知り尽くして祈られたのはないでしょうか。深く痛みを伴う祈りであります。

 ゲツセマネで十字架を目前に控えて祈られた祈りは、まさに父なる神の御心を思い、深く切に祈られました。しかしそのゲツセマネの祈りはすでにこの箇所においても、「ひとりで祈っておられたとき」、はじまっているのです。


 祈りについて、ある有名な神学者は、祈りは主イエスがいまもなお天において祈っておられるその祈りに心を合わせて祈ることだという意味のことを記しています。

 主イエスが祈っておられるそのかたわらで、私どもも心を合わせて祈るとすれば、祈りは願い事だけではなくなっていくのです。

 主の御心をたずね求めて、その御心に応えようとして祈るのが、主イエスと共に祈る祈りであります。


 主イエス・キリストは、私どもが主イエスの祈りに連なるように、大切な御言葉を語りかけてくださいました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23) 


 日々自分の十字架を負って主に従っていくとはどういうことでしょうか。

 生きていく上での苦労を思い浮かべられるかもしれない。しかし、日々の苦労は主イエスの言われる負うべき十字架ではなりません。むしろ、病気になったり、思いがけないことが起こっても、祈ることをやめず、礼拝生活に生きようとすることに、主は導いてくださるのです。日々の労苦の中でも主に信頼して生きていくことを、主は喜んでくださいます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て」とありますが、「自分を捨て」ることについて、有名な神学者、雨宮神父は、「私利私欲と縁を切り、キリストを選び取ること」と言われます。その意味では、キリストを選び取ることが、日々自分の十字架を負って主に従っていくことになるのではないでしょうか。

 ルターは「日々自分の十字架を負う」ことについてこのような意味のことを語っています。それは、主イエスの愛に生きようとするときに、すでに自分の十字架を負っているというのです。主イエスの愛に生きて、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きるときに、もはや自分の十字架はどこにあるのか探す必要はないというのです。主イエスの愛に生きて、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きることは、日々にキリストを選び取ることです。


 神の愛に生きるときに、人を赦すことができない自らの姿に向き合うことがあります。赦すことができない自分を知ることは、主の赦しの尊さを知ることになります。主よ、あなたが赦してくださったように、私も赦します、と祈りに導かれるのです。赦せない中で、赦します、と祈ることは、神様がその祈りを助けてくださることを信じて祈るのです。あるいは、自分にはそれを負う必要がないと思える誤解や課題を負うこともあります。しかしそこでこそ主イエスの愛を知り続けていくのです。主イエスこそが、負うべきではない十字架を私どもに代わって負い、神の審きを受けてくださったからです。

 神の愛に生きて、日々にキリストを選び取ろうとするときに、私どもは神様の助け無しにはできないので、祈りに導かれるのです。その祈りのときに、主なる神の聖霊が共にいて助けてくださるのです。聖霊の助けは、御言葉に伴う神様の助けそのものです。祈りにおいて、十字架の愛をさらに知り続けていくのです。そこに信仰生活の喜びがあります。「わたしに従いなさい。」と主イエスが愛をもって招いてくださる招きに、祈りつつ応えていきましょう。 



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