【復活節第7主日】
礼拝説教「信仰の船旅」
山元 克之 牧師 (青山学院高等部聖書科教諭)
<聖書>
ヨハネによる福音書6:16-21
<讃美歌>
(21)26,10,157,462,65-2,28
「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」と聖書は語ります。主イエスは弟子たちのところにまだ来られていなかったにも関わらず、弟子達は、主イエスをおいて、湖の対岸の町、カファルナウム目指して船を漕ぎ出しました。自分達の師匠である主イエスをおいて弟子達は自分達だけで船を漕ぎ出すのです。
弟子達のこの行動は、あってはならないことのように思います。しかし、冷静に弟子達のこの姿を眺めるとき、この姿は私たちの普段の姿であるように思えてなりません。主イエスの弟子という思い、キリスト者という思いはあっても、主イエスを置き去りにして自分の力で歩んでいることがあるのではないでしょうか。自分の力で乗り越えることが困難な時は主イエスを求めるけれども、特に、自分が得意とするようなこと、自分が秀でているようなことをするときなどは、主イエスを置き去りにして自らの歩みを進めることがあるのではないでしょうか。
この日の出来事は夕方でした。あたりは既に暗くなっていました。電気のある時代ではありません。ですから夜の船出は危険だと考えられていました。弟子の中には漁師もおりましたから、そういった常識はわかっていました。それでも彼らは漕ぎ出すのです。それは、むしろ漁師である人間がいたからであるともいえましょう。彼にとって船の操縦は得意なことなのです。主イエスは船に関しては素人です。己の力を頼りに、船を漕ぎ出す判断を弟子達はしたのです。
そのように、自分が最も得意とすることは、最も罪を犯すに近い場所でもあります。心しておかないと、最も自分の力が発揮されるところが、神様に罪を犯す場所になるのです。自分の最も得意とすることが、主イエスを置き去りにし、自分の力を誇る場所となりました。ティベリアス湖での出来事が、私たち自身の生活の中にもある。特に、自らが得意とする場所にその場所があることを忘れてはなりません。
そのような彼らに、大きな不安が襲い掛かります。強い風が吹き、湖が荒れたのです。19節を見ますと25ないし30スタディオンほど漕ぎ出したところと記されていますが、4-5キロほどの距離です。ティベリアス湖は幅が10kmほどですから、ちょうど湖の真ん中あたりで立ち往生してしまった。自分が最も得意だと思っていた事柄で躓いたのですから、その躓きは痛みの伴う躓きであったといえます。
そこに、主イエスが湖の上を歩いて来られたのです。ここでの弟子の反応には興味深いものがあります。「彼らは恐れた」と聖書は言うのです。主イエスが来られて、ホッとしたのではないのです。
弟子たちは自らの得意なことが、自らの手ではどうすることもできなくなり、主イエスを置き去りにしてきたことを今更ながら、後悔した。そこに主イエスが来られた。それは喜びとか、安心とかを通り越して、彼らにとっては主イエスを置き去りにしたという、自分たちの犯した罪に対する恐れであったと考えることができます。この恐れもまた私たちのよく知る恐れであります。
その恐れを抱く弟子たちに、主イエスは言われます。「わたしだ。恐れることはない」恐れなくてもよい、怖がらなくてもよいと主イエスは弟子達にお語りになりました。なぜか、「わたし」だからです。これは、「わたしだ」と訳されている言葉は、ヨハネ福音書の中で1つのキーワードとなっている言葉です。「エゴー・エイミー」英語で言うと「I am」出エジプト記でモーセが神様に、名前を尋ねたところ神様は「私はある」とお答えになりましたが、ヨハネ福音書で「エゴー・エイミー(わたしだ)」という表現は、神さまが「わたしはある」とお答えになった形とまったく同じです。つまり、主イエスは弟子達の前に現れて、「わたしはあなた達の神である」とお語りになった。20節の「わたしだ」という言葉は主イエスを置き去りにし、自らの力を信じ、罪深さを露呈した弟子たちに対して、主イエスは、それでもわたしはあなたの神である。あなたのことを見捨てはしないと、いうことを意味して語られた言葉です。
罪深い弟子たちに対して、そのようなあなたたちであっても、私はあなたたちの神であると御語りになっている。「わたしである」とお語りになる主イエスの言葉から、弟子たちは大きな慰めを与えられたに違いありません。主イエスを置き去りにした弟子たちは、主イエスからは置き去りにされていないのです。私たちが、主イエスを置き去りにしても主イエスは私たちのことを置き去りにされないのです。
主イエス・キリストは十字架と復活によって私たちにそのことを示してくださったのでありました。主イエスをゴルゴタの丘の十字架の上に置き去りにして去った弟子達でありました。この日のように、彼らは主イエスを独り置き去りにしたのです。それでも復活した主イエスは自分のことを置き去りにし、裏切った弟子のところに現れて希望を与えてくださったのです。主イエスがとらえられ十字架に張り付けられて殺されたのを見たために深い恐れの中にあった弟子たちのところにいち早く駆けつけたのは、復活の主イエスでありました。十字架につけられ3日後に復活された主イエスは「私である。恐れることはない」とこのティベリアス湖畔で御語りになったのと同じように御語りになりました。これは弟子たちにだけではありません。主イエスを置き去りにする私たちもまたこの復活の主の言葉を聞くのです。「私である。恐れることはない」私はあなたの神である、だから恐れることはないと、置き去りにした弟子に、また私たちに主イエスはお語りくださっているのです。
主イエスが弟子たちの後を追ってきたのは、弟子達が助けを求めたからとか、弟子達が信仰深いから、嵐の中を助けようとされたのではありません。主イエスは、どこから現れたのか。闇の覆う湖から現れました。深い深い闇の中から、主イエスは来られた。その様子が表しているのは、神などいないとされる闇の中から主イエスは来られたとヨハネは伝えているのです。
主イエスは、この世の闇に接するところにいてくださいます。罪の深みで出会ってくださいます。そこに来てくださいます。主イエスを山に置き去りにして、ティベリアス湖を渡るというこの弟子たちの行動は、傍目にもよい行動とはいえません。しかし、この行動は私たちも普段の生活で繰り返し犯してしまう罪であります。そういった闇の中を貫いて主イエスは来てくださるのです。私たちの信仰が問題とされるのではありません。信仰のなき闇の中にも主イエスとの出会いがあるのです。
○ 主と共に
「わたしだ。恐れることはない」との主イエスの言葉を聞いて、弟子達は主イエスを「船に迎え入れようとした。」と21節には記されています。以前使っていました口語訳聖書では、「彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。」と訳されていました。弟子達は喜んだのです。恐れていた心は落ち着いたのです。いや、主イエスの「私だ」との言葉が、恐れを越えて、喜びへと変わりました。嵐が収まったから喜んだのではありません。これはヨハネ福音書の今日の記事の特徴ですが、「風がおさまったのか、嵐がおさまったのか」は分からない。記していない。そういったことよりも、置き去りにして来た主イエスが今共におられる。しかも、自ら犯した深い罪にもかかわらず、それでも変わらず自分たちの神として主イエスがそこにいてくださる。そのことによって彼らは喜びにあふれた。そのことを大切なこととしてヨハネは伝えるのです。そのような意味では、まだ、弟子達を乗せた船は嵐の中にあったのかもしれません。文脈から言うならば、嵐は収まっていない。それでも彼らは今心が満たされ、喜びにあふれている。それは、主イエスがともにおられるからです。
ヨハネ福音書を読んでいる教会は、ユダヤ教からの迫害、ローマ帝国からの迫害、まさに嵐の中にありました。その中にあって、この日語られている御言葉は、主が共にいてくださるならば、嵐がおさまっておらずとも、恐れることはない。喜びの中を歩むことができるということです。
教会は、常にこの嵐の中を歩んできました。また今を生きる私たち一人一人も、凪だけの人生ではありません。嵐の中を強いられて歩むことがある。ただ、その時主イエスが共にいますならば、私たちの歩みは恐れの中の歩みではなく、喜びの中の歩みになると御言葉は伝えているのです。言い方を換えますと、彼らにとっての恐れはどこにあったか。それは、強い風が吹いているとか、波が荒れているというところではなく、主イエスを置き去りにしたというところであったことを忘れてはなりません。
主イエスを船に迎え入れようとした弟子たちを乗せた船は、その直後「まもなくで船は目指す地に着いた」と聖書は伝えています。立ち往生したのが、10キロある湖のちょうど真ん中、5キロ地点でした。つまり目指す地までも、5キロ残っていた。しかし弟子たちにしてみたら、主が伴う残りの5キロはまもなくと思えるほどの旅でした。大きな嵐の中見失っていた目指すべき地を、主イエスが共にいてくださることによって、弟子たちを乗せた船は見出し、主の導きのもと間もなく到着する。御言葉は伝えます。主が共にいてくださる。主と共に歩むとき、間もなく私たちは、目指す地がはっきりと示され、その地へと導かれる。喜びのうちに旅路を続けたいと思います。
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