【復活節第6主日】
礼拝説教「神様の備え」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書9:1-17
<讃美歌>
(21)26,4,208,461,65-2,28
ふと、ある詩編の言葉を思い起こしました。
「主ご自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩編127:1)
有名な言葉ですがよく味わうと、不思議な告白です。家を建てるのは、実際に手を動かす人です。しかし、建てる人と共に働いて、完成に導いてくださる主なる神がおられるというのです。ここで言う家は、個人の住まいと言うよりも、礼拝をささげる礼拝堂、神殿が信仰者の思いの中にあるかもしれません。
「家を建てる人の労苦」があるというのは、教会を家にたとえるなら、教会を形成して建て上げていくには、確かに労苦があります。礼拝堂の建物よりも、その中身である教会を作り上げていくには、実際に礼拝に集う必要があります。時間をささげる必要があるのです。しかし、教会生活の労苦は喜ばしい労苦です。主が先頭に立って導き支えてくださるからです。礼拝は主が招き、用意してくださる恵みのときで、礼拝に集うことは、喜ばしいときです。
私どもが教会生活を共に歩む中で、いつも心にとめるべきは、「主ご自身が建ててくださる」ということです。主ご自身が教会を建て上げてくださるということです。
そのことは、主が働き、必要なものを備えてくださるということでもあります。
なかなか思うようにことが進まずに、祈ることがあります。
「主よ、どうかあなたが働いてください。」「主よ、御心ならばあなたが働いて実現へと至らせてください。」考えてみれば、そのような主に任せる祈りが与えられること自体が、主が働いて助けてくださるからだと思います。
主が働いてくださるときに、私どもは何もしないのではないはずです。「家を建てる人の労苦」があるのです。しかし、主は私どもをつたなくとも用いてくださいます。
そのことは、与えられています箇所でもそうです。主イエスが弟子たちを「神の国を宣べ伝え、病人をいやすためにお遣わしになったとき(2)、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。」(3)と言われました。それほどに、すべてを主なる神が備えてくださることを、弟子たちに教え、また弟子たちも主の備えを経験していったのです。
町から町へと、福音を伝えていく弟子たちのことは、ヘロデ王の耳にも入りました。すべてが備えられていく姿に、弟子たちを導く主イエスのことを不思議に思い、「いったい、何者だろう。」(9)と興味を抱いたというのです。もちろん、何も持たずに弟子たちが出かけたことは、主が定められた特別な出来事と理解することができます。教会の歩みを考えるときに、祈って計画して、予算を立てていきます。将来の計画のために前もって用意することもあるのです。しかし、すべてが主から与えられるものによって教会が営んでいることを私どもは深く信じていく必要があります。
主が備えてくださることはまた、有名なパンと魚の奇跡においてもそうです。弟子たちは最初、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(13)と主イエスから言われたときに、途方に暮れたのではないかと思います。男だけでも五千人もいたからです。全く自分たちにはできそうもないことが使命として与えられたのです。しかし、主が備えてくださいました。9章17節によくあらわれています。
「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」すべての人が満腹しただけではなく、もともと空の十二の籠まで満たされたというのです。
主は12弟子たちを用いて、すべての人を満たされました。彼らを用いて、神の業を経験させ、喜びにあずからせてくださったのです。五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人もいた、おびただしい人々を満ち足らせてくださったのです。
四つの福音書に、いろいろな主イエスのなさった奇跡が記されています。四つの福音書で、主の十字架と復活のほかで、すべての福音書に記されている奇跡は、このパンと魚の奇跡のみです。福音書が伝えようとしたのは、主イエスの十字架の死と復活による救いです。ある意味で、最大の奇跡は主イエスが十字架に死なれ復活されて救いの道を切りひらかれたことです。
なぜ十字架に死なれたか。それは直接には、当時の指導者たちによって殺されたと言えます。彼らを脅かす存在としていなくなってほしかったと言えます。
しかしその死は、神の御心からするならば、私どもが受けるべき神の裁きを代わりに受けてくださったことです。そのことは、人の目には隠されたことでした。やがて、神様ご自身が働いて、弟子たちを通して十字架と復活の救いを知るようになったのです。
聖霊のお働きによって弟子たちが知ったことは、主イエスによって罪を赦されて救いを受ける道が、十字架からはじまったということです。主イエスの死は終わりではなく復活され、今も生きて働いておられるのです。主の働きの中心は、私どもに救いを分け与えることです。ご自身の命を分け与えることです。
主イエスは言われました。
「わたしが命のパンである。」(ヨハネ6:35)
パンと魚の奇跡は、主イエスが「命のパン」であるしるしとなっています。パンを分け与えてすべての人を満たされたそのしるしを通して、すべての人にご自身の命を分け与え、救いをもたらすお方であることを示されたのです。
教会は主イエスの福音を、礼拝をはじまりとして宣べ伝えていくことが使命として与えられています。しかしそのことは、主が共にいて働いてくださらなければ到底できないことです。そのために礼拝が欠かさず守られていることも、主の大きな憐れみによる働きがあるからこそです。私どもはそのことをどれほど信じて感謝しているでしょうか。
主が弟子たちを用いて働いてくださったとき、すべての人が満たされました。そのときに、弟子たちの持っていた12の籠もまた空にはならず満たされていきました。考えてみれば当然のことですが、最初は空っぽの籠を弟子たちは用意したはずです。そして主から分け与えられるものを配っていくその中で、それは底をつくことなく籠が満たされていったはずです。そのことは、主イエスによって主の救いが分け与えられても決して尽きることがなく、主のご用に仕えている弟子たち、私ども自身も、空の器がかえって満たされていくことを示しているのではないでしょうか。
主の働きに仕えるものには、主は大きな報いを与えてくださいます。その報いは、弟子たちがパンで満ちた籠を手にしたことであるかもしれません。私どもが教会生活を歩む中で必要なものを主が備えて満たしてくださるのです。しかし、弟子たちが主に仕えて最も満たされたことは、主が生きて働いてくださることを身近で知ったことです。私どもも、礼拝をささげることから始まる教会生活を歩む中で、主が生きて働いておられることを、これからも共に知っていく恵みに満たされていきましょう。
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