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2023年4月9日(日)イースター・家族礼拝

【復活節第1主日】

 

礼拝説教「神の出来事」  

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書24:1-12


<讃美歌>

(21)26,3,326,78,333,65-2,29

 あるとき、子どもたちに、イエス様が死んでしまって、みんなどうしていいか分からなかった話をしました。そのときに、ヨセフさんという人が来て、自分がつくった大切なお墓に、イエス様をきれいな布(亜麻布)に包んで入れました。

 ヨセフさんと聞くと、子どもたちにとって、クリスマスの劇のマリヤとヨセフを思い出すので、そのヨセフさんとは違う、アリマタヤに住んでいたヨセフさんと言ったのです。

 ヨセフは、議員の一人でした。ヨセフは罪なきお方が、十字架に殺されてしまったことを深く悲しんでいたでしょう。深く悔やんでいたかもしれません。ヨセフは、イエス様を十字架に引き渡す決議をした会議の一員だったので、せめてもイエス様を丁寧に葬って差し上げたいと思ったことでしょう。同僚の議員たちの決議や行動には同意しなかったのですが、ヨセフ一人ではどうしようもなかったのです。ヨセフが総督のピラトのところへ行って「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」(52-53)とあります。その墓は、マタイ福音書によれば自分のために用意した墓でした。おそらくイエス様を葬らせてほしいと願うことは、ヨセフの議員としての立場を失うことになったと思います。そうなったとしても少しも惜しくはないと思っていたはずです。そう思っていなければ、イエス様を葬らせてほしいとは願い出ることはできませんでした。

 しかし、ヨセフは想像もしなかったでしょうが、イエス様は、死なれたけれども、三日目に復活されてお墓が空っぽになりました。ヨセフのお墓がイエス様の復活の場所になりました。

 やがてヨセフはイエス様の復活を信じました。初代教会で名前の知られた人になったから、名前が記されていると思われます。自分が死ぬときにも、神様のもとでイエス様の復活の命を与えていただいて守っていただける。ヨセフが用意した墓は、イエス様が復活なさって空になったのですから、やがてヨセフが死んで横たわるところは、すでにイエス様が横たわられて復活されたところです。深い感謝と希望をもって自らのすべてを委ねていったはずです。

 しかし、主イエスが復活されたという神の出来事は、最初は、受けとめきれない思いから始まりました。神様が働かれて、大きな出来事が起こるときに、人はすぐに喜ぶことができないことがあるのです。

 

 主イエスが復活されたとき、神の使いから主の復活を告げられた女性たちは、はじめは恐れて地に顔を伏せましたが(5)、主イエスの御言葉を思い起こしました。神の使いは言いました。前もって語られた主イエスの言葉を伝えたのです。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(7)女性たちは、主イエスの御言葉を思い出して信じたのです。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(8)とあるとおりです。

大切なことは、主なる神は、御言葉と共に働いて信仰を与えてくださるのです。女性たちは御言葉によって信じて、主が復活されてお墓が空であったことを弟子たちに告げました。しかし弟子たちはその話を、たわ言と思ったのです。

10節11節「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」

 ありえないと思ったのです。ルカはそれを正直に記しました。教会の歩みは、主の復活をたわ言と思ったことからはじまったのです。

 しかし弟子たちは、やがて死からよみがえられた主イエスに出会い、主の御言葉によって復活を信じるようになりました。そして主の十字架と復活の救いを伝えていったのです。かつての自分たちと同じように、まわりには、たわ言と思われたでしょう。しかし神様が働きかけて、復活があることを信じることができるようにしてくださった。人にはできないことも、神様にはできるのです。

 復活された主イエスを信じる信仰を、教会は神様の力によって受け継いで今に至っています。主なる神に赦されて受け入れられ、救いを与えられる信仰です。主イエスの救いは、主イエスの復活の命と繋がって生きることです。地上で生きながらにして復活の命に生きることです。

 ルカの教会は、地上での歩みの中で、とても厳しい日々を生きることがあったでしょう。初代教会は迫害の時代を生きぬきました。しかし、神様どうしてですか、という夜の闇のような現実に、喜びの朝をもたらしてくださる希望に生きることができたのです。私どもも、主がもたらされる、喜びの朝の希望に生きることができるのです。

 詩編の30編6節の言葉を思い起こします。

「泣きながら夜を過ごす人にも

 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」

 

 やがての日、この地上の生涯を終える日に、神様のもとで新しい命を与えられることを教会は告げてきました。救われて神様に受け入れられる希望です。その希望は、やがての日だけではない。すでにはじまっています。神様に赦されて受け入れられ、神と共に生きる希望です。


 先ほど、お墓を提供したヨセフも、そのお墓に行った女性たちも、思い浮かびもしなかった神の出来事、主の復活に出会ったと言いました。それは、大切なお方を失った絶望に希望がもたらされた、神の出来事です。


 いかなるときにも希望をもたらそうと、主イエスはいまも共に生きてくださっています。復活され、今も生きて働いてくださっている主がおられることを、共に信じて日々に生きていきましょう。



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