【復活節第4主日】
礼拝説教「言い広めた話」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書8:26-39
<讃美歌>
(21)26,12,51,479,65-2,29
ゲラサの地へと、主イエスが行かれた時のことです。
「一行は」とありますが、到着した後の話には、弟子たちは全く登場しません。いないはずはないのですが、どこかへ行ってしまったのではと思うほどに、弟子たちの会話も記されていないのです。ゲラサの地で、ある人が救われたことには、弟子たちがあらわれてこないのです。それは、人の救いは人間にはできないことで、すべて神様のなさることだということを示しているのではないでしょうか。
ゲラサの地で、墓場を住み家にして、悪霊に取りつかれていたある人が、主イエスのもとに来ます。「助けてください」とは言わずに、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」(28)と叫んでいるのです。
ここで主イエスは、「いと高き神の子」として働かれています。だれもこの人をどうにかできない、どうしようもないのです。助けることができない。まして、救いを与えることなどできないのです。
しかし主イエスは、この人から悪しきものを追い出し、ご自分の救いを与えて恵みで支配してくださいました。悪霊に支配されていた者が、神様の恵みによって、主なる神の力で支配されていったのです。
主イエスは、悪霊に取りつかれていたこの人に会うために、直前の箇所で「湖の向こう岸に渡ろう」(22)と言われて、ガリラヤ湖を危険を冒して渡ってこられました。ひとりの人を救うために、命をかけておられるのです。それは、私どもへの思いでもあります。主は私どもひとりひとりを、命を献げても惜しくはない者として愛し導いてくださるのです。
救われたこの人は、旅を続けられる主イエスのお伴をしてついて行きたかったのです。しかし主イエスは、ご自分の代わりに、この人をゲラサの地に残していかれました。
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」(39)と主イエスは語りかけられました。
「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」とあります。主の御言葉に聞き従ったのです。
「言い広めた」という言葉は、「宣べ伝えた」とも訳すことができます。それは、主イエスの救いを宣べ伝えて伝道したということで、この人は主イエスの伝道者となっていったのです。
おそらくは、彼にとって町中に伝道することは厳しいことであったのではないでしょうか。かつて悪霊に取りつかれていたときになしたことを償っていったかもしれません。しかし、彼の姿とその宣べ伝える福音は、町の慰めとなっていったのです。彼が回復するだけではなくて、町の人々もまた主の恵みによる伝道の言葉に包まれて、励まされていったはずです。
考えてみますと、町の人たちにとっては、彼が主イエス・キリストの救いを宣べ伝えるときに、引っかかることがあったと思います。それは、多くの豚が犠牲になったことです。彼が正気になったときにも、手放しで喜ぶことはできず、「ゲラサの人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。」(37)とあります。悲しい願いです。
もし町の人たちが神様に向かって、多くの豚が犠牲になったことを惜しんで文句を言うなら、主なる神は、多くの豚にまさって、神の独り子が私どもの救いのために尊い犠牲を献げてくださったことを語りかけられるのではないかと思います。その意味では、ゲラサの人の救いは、主イエスの尊い犠牲を指し示しているのではないでしょうか。
これは勝手な想像ですが、救われたゲラサの人が愛したのではないかと思う、詩編の言葉があります。いま祈祷会では詩編を少しずつ学んでいますが、30編の12-13節にこのように歌われています。信仰者の神様への告白です。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。」
「嘆きを踊りに変え」というのは、神様に向かって嘆いていたのが、踊るような喜びに変えられて神様をたたえているのです。「粗布を脱がせ」とありますが、粗布は悲しいときに着るぼろ布の服で、悔い改めの祈りを献げた人が、罪を赦していただき、「喜びを帯としてくださいました」と主をたたえています。「喜びを帯としてくださいました」というのは、「喜びを着せてくださいました」ということです。まさに、救いの衣を着せてくださった喜びが歌われているのです。この詩は歌いつがれ、これは私の歌だと思う人が多くいたはずです。ゲラサの人もまたそのひとりではないかと思います。
さて、主イエスに出会い、悪霊を追い出してもらって救われた人の話を聞くと、思い浮かぶもうひとりの人がいます。
それはパウロという人です。彼は、かつてキリスト者を迫害していた人です。暴力さえも振るっていた。キリスト者が間違っていると確信していたのです。その姿は、まるで悪霊に導かれていたとも言えるような様です。
しかしそのパウロは、迫害へと向かうその途中で、復活された主イエスが出会ってくださった。彼はその後、迫害者から伝道者へと変えられていったのです。
主イエスが自分にしてくださったことを、町から町へと、町中に言い広めていったのはパウロであります。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の最たる者です。」(Ⅰテモテ1:15)とパウロは宣べ伝えました。
アグリッパ王にも伝道したパウロです。実際には、裁判の尋問で王の前に出されたのはパウロですが、その裁判の受け答えの中で、王に主イエスの福音を伝えたのです。
パウロは、王にも伝えました。
「私のようになってくださることを神に祈ります。」(使徒26:29)
ゲラサのある人も、私のようになってください、と自らに与えられた救いの恵みを、喜びをもって伝えたのです。
私どももまた、喜びと感謝をもって、「私たちのようになってください」と教会の礼拝から救いを伝えているのです。主に赦され、すべてを受け入れられて生きる喜びを、この礼拝をはじまりとして伝えていきましょう。
Comments