【復活前第1主日】
礼拝説教「不思議な導き」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書7:36-8:3
<讃美歌>
(21)26,1,300,295,65-2,29
私どもは礼拝共同体として歩んでいます。それはいつでも、教会の歩みの基本の基本でありまして、いつもそこに立ち続ける必要があります。食事や睡眠も、毎日のことであるから、むしろ大切なのであって、毎週毎週献げる礼拝こそ何よりも大事にする必要があります。2023年度最初の礼拝を献げていますが、週の初めの日ごとの礼拝こそ、私どもを生かすものとして礼拝の恵みを学び続けていきましょう。
主イエスは、ファリサイ人シモンと食事をされたとき、たとえを用いてお話しになりました。40節「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われて話されましたが、たとえを用いられました。シモンに悟らせようとされたのでしょう。
たとえの内容は、500デナリオンと50デナリオンを借りていた者がいたけれども、二人とも、返すことができなかったので、その金貸しは二人とも赦してやったが、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、というのです。単純なたとえと思われるかもしれない。しかし実に深いことを主イエスはシモンに語りかけようとしておられます。いろんなことを考えさせられます。
なぜ、500と50という区別をつけられたのだろうか。シモンが人と自分を比較して生きている、そこからまず主イエスは話しをはじめていかれたのかもしれません。しかし、肝心なことは、二人とも、返すことができなかった、ということであります。1デナリオンは1日分の賃金に相当すると言われます。500デナリオンは500日分、50デナリオンは50日文の賃金に相当する、膨大な借金を、そのお金の大小はあったとしても、返すことができなかった。
その二人の借金をすべて赦してやったその人は、誰であるのでしょうか。それは、語っておられる主イエス・キリスト御自身であります。主イエスは、自らのことをここに語っておられる。そして、シモンを招いておられるのです。
たとえ話を語っておられる主イエスはまた、そのたとえ話の結論を引き受けておられます。彼らの借金を赦すために、そして彼らに代わって返すために、主イエスは自ら命を献げて、その救いの道をひらかれたのです。その覚悟をもって、このたとえを話しておられるはずです。私どももまた、返すことができなくて、赦していただくほかなかった者のひとりではないでしょうか。主イエスが私どもの、罪をことごとく赦してくださったことを信じて、主イエスの眼差し、その輝きのもとに、自らを見出すことが赦されているのであります。
明らかに、主イエスはシモンに出会っておられるのですけれども、シモンは、主イエスの思いに気づかずにいたと思われます。そのとき主イエスは、シモンの行動を、丁寧すぎるほどに解説して言われます。足を洗う水をくれなかった、接吻の挨拶もしてくれなかったし、オリーブ油を頭に注いでもくれなかった。
それは、礼儀作法のことをおっしゃっているのではなくて、シモンが主イエスを信じていない、愛していない、ということに気づいてほしいと思われた。そして丁寧すぎるほどに語られた主イエスがどんなにシモンのことを愛しておられるか、出会っておられるか、そのことにシモンが気づいてほしいと思われたのであります。主イエスが言いたいことは、シモンへのそのような神の愛であります。
逆に、ひとりの女性のことを、主イエスは、心から喜んでおられます。その行為を、主イエスを愛する行為として、主イエスを愛する恵みに生きている姿として、喜んで受けいれてくださった。そして彼女に、「あなたの罪は赦された」(48)と言われました。彼女が、涙ながらに香油を注いだから赦されたのでないことは、もちろん明らかであります。「あなたの罪は赦された」と、彼女の罪がすべて赦されていることを、改めて主イエスは宣言なさったのです。
私どももまた、礼拝のたびごとに、「あなたの罪は赦された」と、み声をかけていただき、罪の赦しを信じてまた、それぞれの持ち場立場に遣わされていくのであります。その時に主イエスは、「安心して行きなさい」(50)と、私どもを送り出してくださる。それぞれの生活の場へと、「安心して行きなさい」と送り出してくださるのであります。
「安心して行きなさい」というのは、少し言葉が弱いような気がします。「安心して」というのは、元々の言葉を直訳すると、「平安の中で」となります。「平安」は「エイレネー」という言葉ですが、ヘブライ語のシャロームが元になっています。シャロームは、神様が私どもの欠けたところを満たそうと働きかけてくださることです。ですから、主イエスが赦しを与え、必要を満たし支えてくださるシャローム、平安の中で生きるようにということです。少し意訳すると、「わたしが与える平安を生きなさい」となります。主イエスが与えてくださる平安を生きていくようにということです。
わたしの平安を生きていくように、と主イエスは私どもを送り出してくださるのであります。日ごとの歩みで、私どもにどのような主イエスの平安の道が与えられているか。そのことを深く待ち望み、感謝しながら生きてまいりたいと願います。
主イエスが与えてくださる平安を生きることは、まさに礼拝共同体として生きることです。今日の箇所に、主イエスと12弟子たちと共に、礼拝共同体として喜んで仕えていた人たちのことが記されています。彼女たちもまた、教会の体のひとつの部分として喜んで主に従っていたのです。
7つの悪霊を追い出していただいた、マグダラの女と呼ばれるマリアの名が記されています。7つのというのは、数の7つというよりは、7は完全数ですから、とくにたちの悪いという意味のようです。
彼女は、シモンが用意した食事の席に来て、涙で主イエスの足をぬらし香油を注いだ女性と伝統的に考えられることがあります。しかしどうもルカは同一の人物とはしていないようです。しかし同じであっても別の人であっても、その信仰の姿は重なっています。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と主イエスが祝福された恵みに生きたのです。主イエスから、わたしが与える平安を生きていきなさい、と語りかけられたのです。すべてを主イエスに献げて、主イエスを愛して従っていったからです。
ヘロデの家令クザの妻ヨハナの名もあります。家令とは、王の会計を管理し、家来たちを監督する僕のようで、王の側近のひとりになります。ヘロデ王に仕える側近の妻が、主イエスに従っていたことになります。家を離れて、主イエスと旅を共にし、弟子たちや一行の世話をしていたことを、夫のクザはどう思っていたのでしょうか。
もしかしたら夫のクザは亡くなっていたかもしれません。いずれにしても、不思議な主の働きです。ヘロデ王は、バプテスマのヨハネを殺した人です。そのような人物の家の関係者から、キリスト者が生まれ、主イエスの行動を共にしていたことになります。彼女はおそらく裕福な人であったと思われます。
スサンナは、ここにしか名前が出てきません。しかし初代教会でスサンナと言えば多くの人が知っている働き人であったと思われます。
「そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(3)
マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナは、旅をしながらの伝道生活、教会生活に仕えていた。持ち物を献げるだけでなく、食事や洗濯の世話もした。寝泊まりする場所を探したりすることもあったでしょう。その一つ一つに喜んで取り組んでいたはずです。
ルカは多くを記していませんが、彼女たちのような存在が教会を支えていたことはしっかりと記しています。礼拝の喜びに生きて一つ一つのことをなしていた、礼拝共同体の姿がそこにあったのです。
今週は、受難週と言って、主イエスが十字架にお苦しみになり私どもの救いのために命を献げてくださったことを感謝して思い巡らすときです。レントと呼ばれる期間の最後の週になります。レントは、英語のLentをそのままカタカナにしていますが、春という言葉が元になっているようです。人にもたらされた春と言うことができる主の復活の祝いに備えながら、レントは悔い改めと節制を持って過ごします。
主イエスの復活の場面で、再び、マグダラのマリア、ヨハナの名前が記されます。彼女たちは、天使から「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:7)と語りかけられた時、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(8)とあるのです。
主イエスの御言葉をまず思い出したのは、12弟子ではなく彼女たちであった。彼女たちは食事や身のまわりの世話だけでなく、むしろ礼拝の喜びに生きてそれをしていた。
「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」(8:1)とあります。
主イエスが福音を告げ知らされる、そこにマグダラのマリアたちもいて、その御言葉に聞き、従っていくことが喜びの源、力の源になっていたのです。
マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナたちにとっては、主イエスと共に生きていたことは、生涯の思い出であり、たびたび周りに語り聞かせたことでしょう。その話の中に、会衆の前での主イエスの福音の御言葉、食卓での卓上の言葉もあって、弟子たちが彼女たちを通して思い起こし、福音書を書き記したところもあるのではと想像します。
私どももまた礼拝からはじまる教会生活の喜びに生きていきましょう。主イエスは、わたしが与える平安を生きなさい、と言われました。事あるごとに主のお働きによって主イエスの御言葉を思い起こし、従っていく恵みに生かされましょう。
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