【復活節第3主日】
礼拝説教「主イエスの先導」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書8:22-25
<讃美歌>
(21)26,6,149,462,65-2,29
キリスト教会が舟にたとえられることがあります。古くから、礼拝堂の会衆席を舟(ship)と呼ぶ習慣があるようです。
舟底の下は海であり、舟は浮かんでいるに過ぎません。旧約聖書から受け継いだようですが、海は、人にはとらえきれない得体の知れないものというイメージがあったようです。人が生きていくときの危うさが、海に浮かぶ舟でイメージされるのです。そして、その舟を導いてくださる主は、この礼拝堂で語りかけてくださる主であることを信じて、礼拝堂を舟のイメージでとらえているのです。
かつての弟子たちが、主イエスが「湖の向こう岸に渡ろう」と先導してくださった舟の中で主イエスの御言葉を聞いたように、私どももこの礼拝堂で、共に主イエスの語りかけを聞いて生きることができるのです。
1937年のことですが、世界のキリスト教会は、歩みを共にして祈るため、世界教会協議会を設立することに同意しました。残念ながら実際に発足したのは第二次世界大戦後の1948年です。
世界教会協議会は、そのマークに、帆を張った小さな舟を用いました。今日の箇所に記されているように、主イエスがその舟の中心にいて導いてくださることを信じて、舟をしるしとしたのです。
この箇所で、弟子たちが主イエスと共に乗っている舟は小さな舟です。ガリラヤ湖を向こう岸へと渡ろうとするのですが、突風が吹いて沈みそうになります。ガリラヤ湖は、周囲を山に囲まれた湖ですので、夕方に冷たい風が山から吹きおろしてきて嵐になることがあるようです。
弟子たちの多くは、そのガリラヤ湖で漁師をしていたので、慣れていたはずです。しかし彼らをしても、危機的な状況であった。
私どもの経験の積み重ねだけでは、乗り切れないことがあるのです。
そのような時に、弟子たちは主イエスのもとに行き、助けを求めました。
弟子たちから助けを求められた時に、主イエスは嵐の最中、眠っておられたのです。ある神学者は、嵐の中、眠っておられる主イエスに、いかなる時にも失われない神の平安そのものとしての主イエスを見いだすのです。動かされることのないお方が、私どもと共にいてくださるのです。
主イエスが私どもと共にいてくださることは、私どもの教会という小さな舟に主イエスも乗っておられるということです。その舟が人の目には小さく見えても主イエスがいっしょに乗っておられるなら、沈まないのです。
「いったいこの方はどなたなのだろう」と、風や波まで主イエスの言葉に従う様子に驚いた弟子たちでした。
しかしそれは同時に、創造主の姿と重なるようであったので、とらえきれなくなったのではないかと思います。創世記1章に、「光あれ」と言われると、そこに光があったと記されていますが、天地創造の神が御言葉を語られると、その御言葉の通りになったことと同じように、主イエスが御言葉を語られると、嵐が静まったからです。
天地創造のはじめからおられた主なる神が、救い主として、私どものひとりとなられたことを、弟子たちはやがて知るのです。
「いったいこの方はどなたなのだろう」という思いが解決したひとつの鍵は、「起き上がって」(24)という言葉です。この箇所では、眠っておられた主イエスが「起き上がって」風と波をお叱りなってしずめてくださったとあります。しかし同じ言葉が、別の箇所では「復活されて」と訳されるのです。
キリスト教会が代々に渡って信じてきたことは、主イエスが私どもの罪の裁きを代わりに受けて、十字架に命を献げられたことです。そして主イエスの死は終わりではなく死から起き上がられて、すなわち復活されて、今も教会という舟を導いてくださっているということです。
たとえ嵐が吹き荒れるような時にも、主イエスがしずめてくださるのです。嵐というのは、人にはどうにもできないものをあらわしているのではないでしょうか。
私どもが共に献げる礼拝は、たとえるなら主イエスが一緒に乗ってくださる舟であります。神をたたえる礼拝は決して沈まず、とこしえに続き、やがて私どもは天においても献げていくのです。
この地上での礼拝は、天において主のみもとで献げられている礼拝とつながっているのです。主は、人にはどうしようもないことを静め、向こう岸へと、行くべきところへと導いてくださるのです。
神をたたえ、その御言葉に養われる礼拝によって、私どもは神の恵みに生き、その恵みによって信仰を抱いて生きぬくことができることを信じていきましょう。
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