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shirasagichurch

2023年4月16日(日)

【復活節第2主日】

 

礼拝説教「忍耐して実を結ぶ」  

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書8:4-21


<讃美歌>

(21)26,9,132,536,65-2,29


 今日与えられています箇所は、長いのですが、どうしても途中で区切ることができませんでした。与えられています最後の節、21節で主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われました。この御言葉をしっかりと聞く必要があります。主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは」と言われて、神の家族である教会のことを語られました。キリスト教会は、互いに神の言葉でつながっているのです。礼拝で神の言葉を共に聞いて行う人たちの集まりだと言われたのです。

 神の言葉を共に聞いて行う人たち、と言われると、果たして自分はどうだろうかと考えてしまうかもしれません。しかしこの箇所は、むしろ自分は御言葉を聞いて行っているだろうか、聞いて行おうとしているだろうかと、自分をふりかえるように導いているのです。自分をふりかえるのであって、あの人は聞いても行っていないと、人を裁く道具にしてはいけないのです。主が私どもに語りかけて、悔い改めに導いてくださっていることに思いを深めていきましょう。


 4節以下で、種まきのたとえが主イエスによって語られています。

 道端の種、石地の種、茨の中に落ちた種、それぞれ結果として実を結ばなかった。一方、良い地に落ちた種は、百倍の実を結ぶのです。こういう話を聞くと、私もそうですが、自分が良い地だと思って話を聞かない。せっかく主の御言葉を聞いても、実を結ばないようにしてしまう罪のことを考えてしまいます。自らのいたらなさを思うと、主よ、どうかおゆるしくださいと祈ります。


 主イエスは、種まきのたとえで何を語りかけようとされたのでしょうか。主イエス自らここで説き明かしておられます。

 種は神の言葉だと言われます。「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。」(11)

 しかし注意深く聞きますと、「道端のものとは・・・人たちのことである。」(12)とあって、種が、このような人たちだと語られることになります。どういうことかと言うと、種が神の言葉であって道端や、石地にまかれるのだけれど、同時にそれは、種がまかれたこういう人たちだと言われて、種である神の言葉と、まかれた私たち人のことが一緒になっています。

 これは、途中で混同したのではなくて、御言葉が種のように私どもの心にまかれると、その御言葉の種はまかれたその人とひとつになっていくということです。主の御言葉は、聞いた私どもを生かして動かしていく。それほどにどうしても必要なものだということです。


 種まきのたとえでよく誤解されることがあります。よくある誤解は、主イエスは私どもを区分しようとされているという理解です。

 主イエスは、私どもを、あなたは道端の人、あなたは石地の人、茨の中の人、というように区別しようとはされていないのです。確かに振り返ると、主の御言葉を無駄にしてしまったのではと思うようなことがあって、それぞれ悔い改めて祈るかもしれません。

 しかし主イエスはここで、私どもを悔い改めに導くだけでない、実を結ぶ人となるように、良い土地になって、神の言葉を聞いて行う人となるように導いてくださっているのです。


 主イエスのたとえを理解する、ひとつの鍵があります。

 それは主イエス・キリストがたとえを話される時は、そのたとえの結果どうなったかを引き受けようとなさっているということです。私どもが道端や石地や茨の中にまかれたその人のようになるのではなく、良い土地にまかれたその人のように、実を結んで生きるように導いておられるのです。私どもが道端や石地や茨の中にまかれたその人のようなことがあったとしても、あるいはかつてのそのような歩みを思い起こすとしても、そこでこそ主イエスを信じて見上げていくよう導いておられます。主イエスは私どもの罪の裁きを十字架でその身に受けてくださいました。主イエスはたとえを語られながら、聞く者たちへの神の裁きをその身に受けられる覚悟をもって語っておられたはずです。そのようにたとえの結果を引き受けておられるのです。


 もちろん、私どもにも責任があります。主は「聞く耳のあるものは聞きなさい。」(8)としかも「大声で」心を込めて語りかけられました。神の愛をもって「聞く耳のあるものは聞きなさい。」と「大声で」言われたのです。主イエスがこのようになるようにと導いておられる姿が15節に記されています。

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

「立派な善い心」を「美しい心」と訳した神学者もいます。御言葉を聞くふさわしい心ということです。「立派な善い心」を「美しい心」「御言葉を聞くふさわしい心」を思い巡らしていて心に浮かんだことがあります。

 

 神の言葉の「言葉」は、旧約聖書では、ダーバールと言いますが、言葉とも行為とも訳せます。神の言葉は言行一致、言葉と行いが切り離せないのです。創世記で主が「光あれ。」と言われて「光があった。」(1:3)それがダーバール、主の御言葉です。

 主は御言葉を語り聞かせて、その御言葉がその人の現実、生活の命の源となるように働きかけてくださっているのです。主は礼拝で私どもに御言葉を語りかけ、その御言葉が現実となって信仰に生きるように働いてくださっているのです。

 自分は道端のようなものだと心配する必要がないということです。むしろ、実を結ばない者を、良い土地へと造りかえようとしておられる招き、約束がここにあるのです。


 ひとつ大切な、心にとめておくことがここにあります。それは「忍耐して実を結ぶ」ということです。

 「忍耐して」という時に、私どもの忍耐に先立って、主イエスの忍耐を忘れてはならないのです。聖書では愛と忍耐はひとつです。「愛は忍耐強い。愛は・・・すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:4、7)主イエスの忍耐は、十字架の上にあらわされました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか分からないのです。」(ルカ23:34)

 主イエスは十字架につけていった人たちのことを、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」と祈られました。それは、たとえで言う、道端や石地や茨の中の人たちのために祈られたということではないでしょうか。また教会は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか分からないのです。」という主イエスの祈りを私どものためでもあると信じてきました。

 主イエスはどこまでも私どものことを、愛をもって赦し、忍耐強く導いてくださるのです。忍耐して、救いという実を結んでくださった、主イエス・キリストが私どもを導いてくださるのです。

 主イエスの忍耐強い愛に確かさをおいて信じていく時に、私どもは聞いて行う人となり続けていくのです。主の御言葉が、私どもの生活の一部となるように、主が忍耐深く導いてくださっていることを信じて、祈り励んでいきましょう。



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