【復活前第5主日】
礼拝説教「気づくために」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書6:37-49
<讃美歌>
(21)25,3,51,441,65-2,29
主イエスは、私どものすべてをご存じであります。
主なる神が私どものすべてを知っていてくださることを信じていくことは、大きな慰めです。必要に応じた助けを与えてくださると信じていくことができるからです。すぐに思い描くような状況にならないとしても、主を信じてゆだねていくことができるのです。実際に、礼拝において幾たびも、ゆだねていく信仰を授けられてきたのではないでしょうか。
主なる神が私どものすべてをご存じであるということは、私ども自身が主に知られているほどに、自らのことを分かっていないことを主はよく知っておられるのです。そのことを主イエスは愛をもって語りかけてくださいます。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(41)
主なる神から見るなら、私どもは「自分の目の中の丸太に気づかない」ほどの愚かさを持っているのです。主の助けがどうしても必要です。そのことをどれほど心に刻んでいるでしょうか。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」
私どもがこの言葉を、相手の無知を批判するような道具にするならどうでしょうか。指摘する私ども自身が、自分のことが十分に分かっていなのに相手の欠点にはよく気づくのですから、それこそが「自分の目にある丸太を見ないで」「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」(42)と言っていることになるのではないでしょうか。
どのように自分を知ることができるのでしょうか。こんなことを思います。
私どもは喉が渇いて水分を補給します。問題なのは、喉の渇きを感じないで、脱水症状になることがあると聞きます。気づかないうちに脱水症状になることがあるということです。体の脱水症状だけではなく、魂が気づかないうちに、いわば脱水症状になることがあるのではないでしょうか。体にいつも必要なのは、水がそうですが、私どもの魂に必要なのは御言葉ではないでしょうか。御言葉が無くてはならないことをどのように自覚しているでしょうか。
礼拝に集い、共に御言葉を聞くときに、御言葉と共に聖霊がお働きになって、御言葉によって生きていることを知るのです。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」とは、実に厳しい語りかけですが、ほかでもない主ご自身こそが、厳しくも本当のことを、愛をもって語りかけてくださるのです。
主イエスの厳しいかに思える御言葉によって、私どもは主から教えていただく必要があることを知っていくのではないでしょうか。主よ、どうか気づかせてください、と魂の渇きを自覚するようになるのです。
主イエスは「人を裁くな」「人を罪人だと決めつけるな」(37)と言われました。人を裁く自分が、どれほど主の赦しを必要としているかを、「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と主は語りかけてくださるのです。
主イエスは「赦しなさい」(37)「与えなさい」(38)と積極的な歩みを命じられます。これは、主の憐れみの中身を伝えていることでもあります。
主は私どもを裁かれたとしても、気づかせて導き、赦し、救いを与えようとして、働きかけておられるのです。だからそのような主の憐れみに動かされて生きるようにと、「人を裁くな」「人を罪人だと決めつけるな」「赦しなさい」「与えなさい」と命じられるのです。
また、信仰生活において気づくべきは、どなたとつながっているかということです。どなたとつながっているかが、私どもの信仰生活の命の源となります。そこから私どもの歩み、行いが生み出されるからです。
言うまでもなく、主イエスという木とつながって、その枝として生きるときに、信仰の歩みが与えられていくのです。
それは、「力を捨てよ。知れ、わたしは神。」(詩編46:11)と招いてくださる主のお働きのもとに生きることです。
主イエスとつながって生きることは、確かな土台を持つことです。主イエスとつながらない信仰生活などあり得ないのです。主イエスという土台を持つことは、自らの身の置き所を持つことです。主イエスという土台がすでに与えられていることに気づいて、どれほど感謝しているでしょうか。
主イエスは、私どもに土台のある歩みを約束してくださっているのです。約束ということは、私どもがそれを獲得するのではなくて、主の憐れみによって、用意され、与えられるという意味です。
御言葉を聞いて行うことを、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(48)と、主イエスが語られた御言葉を聞くと、どうやって深く掘り下げようかとまず考えてしまいます。自分は果たして岩の上に土台を持っているのかと不安になります。
しかし主イエスは、私どもが岩の上に土台を置いて家を建てた人として生きることを約束してくださっているのです。
私どもにとって、教会という家を建てる土台は、言うまでもなく主イエス・キリストです。その土台に届くように、命を献げて深く掘り下げてくださったのも主イエス・キリストではないでしょうか。
主イエス・キリストという土台に身を置いて生きることは、主の御言葉の恵みに生きることです。そのような土台ある歩みは、聞くだけに終わることがない、私どもを新しくし、絶えず悔い改めに導き、主の憐れみを持ち運ぶ者として用いようと、主が働きかけてくださるのです。
マルティン・ルターは、信仰で悩んでいました。そしてその悩みに解決が与えられたときに、聖書を当時のドイツ語に翻訳して、それぞれの書簡、たとえばローマの信徒への手紙に序文をつけました。そのローマ書の序文にルターはこういう言葉を添えたのです。
「『信仰』とは、ある人たちが考えているような、人間的な妄想や夢ではない。そう人たちは、生活の改善やよい行いが結果せず、しかも信仰について多く聞かれ、語られているのを見ると、誤りに陥って、『信仰では十分ではない。正しい、救われた者となるには、行いをしなければならない」と言う。彼らは福音を聞いても、これに襲いかかって、自分の力で自分のために、心の中で「私は信じる」というひとつの思いを作り上げて、これを正しい信仰と考えるようになる。しかし、これは、心の底となんらかかわりない、人間的な思い付きや考えであるから、このような信仰は何も行わず、そのあとにいかなる改善も結果として生じない。
しかし、信仰は私たちの内における神の働きである。」(ローマ書序文より、徳善訳)
ルターが「信仰とは私たちの内における神の働きである」と言ったように、主が働きかけてくださることを信じて、そのお働きのもとで互いに心がけ祈り努めていくのです。私どもは、主の働きかけに気づいているでしょうか。あるいは、気づき得ないところでも、主が働きかけて助けてくださることを信じているでしょうか。
先ほど、魂の渇きに気づかせてくださるのも、主なる神の働きだと言いました。私どもが御言葉に渇き、祈り求めて動かされていくことの、恵みの約束が与えられているのです。御言葉の恵みに生きることの確かさを、主イエスは強く語りかけてくださるのです。
主イエスはたとえによって語られました。「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」(48)とあるように、御言葉に生きる確かさを信じていきましょう。私どもにとって、主なる神こそが、揺り動かされないお方がおられることを信じていきましょう。
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